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先輩の声
三島 徹也氏(83年卒) 松井 保幸氏 (87年卒) 岡本 章司氏(89年卒) 土屋 智史氏(96年卒)
  上田 功氏(90年卒) 北河 大次郎氏(92年卒) 廣瀬 利雄氏(55年卒)
綿谷 昭夫氏 (72年卒) 大野 浩氏(83年卒・故人) 田口 治宏氏(84年卒) 瀬古 一郎氏(90年卒)
水谷 誠(85年卒) 盛谷 明弘(86年卒) 滝本 勝(97年卒) ジェ シュ氏(12年卒)
シタラム氏 (90年卒) ハメド ハドホウド氏(10年卒) ペンヌン ワーンニッチャイ氏(85年卒) ヤニさん(10年卒)
ヨランダ アルベルト氏 (14年卒) ラン ビン(89年卒) 森 昌文氏(81年卒) 天野 玲子氏(80年卒)
田代 民治氏 (71年卒)

 

氏名:シタラムさん(中央右)
1990年博士課程修了(指導教官:中村英夫先生)
アジア開発銀行
2009年より東京大学工学部フェロー

・インタビュアー:プラカール ミスラ(中央左、竹内研D2、インド出身)キットラットポン ナンティコーン(左端、竹内研M2、タイ出身)

 

 Prakhar (以下、P) お忙しいスケジュールの中でインタビューの機会をいただき、ありがとうございます。簡単にご経歴を拝見しましたが、インド工科大学マドラス校の機械工学科を卒業後、タイのアジア工科大学において産業工学とマネジメントで修士号を取得され、その後、東京大学大学院工学系研究科の土木工学専攻で博士号を取得されていますね。当時はまだ多様な分野、しかも複数の国で学業を修めることが珍しい時代だったと思いますが、なぜこのような学位取得への道を歩んできたのですか?

Dr Seetharam (以下、S) 私はチェンナイ(インドの旧マドラス)近郊の小さい町の出身です。IIT-JEEという国が実施する学力試験(日本のセンター試験のようなもの)で高得点を取り、コンピューターサイエンスなどを学べるカンプール校にも行けたのですが、両親が近くの大学にしてほしいと強く希望しましたので、一番近いマドラス校で機械工学を学ぶことにしました。(インド工科大学はインド各地にあり、学生は試験の結果と希望する学科で各校に振り分けられる。) しかし勉強を始めてみて、自分はものを組み立てたり、製作する技術よりも、何かを分析する方法を学びたいと思うようになりました。そこで卒業後はTELCO(現タタ自動車、インドを代表する複合企業)に就職しました。TELCOは当時、生産供給ラインの管理にコンピューターシステムを導入したばかりで、IITでの私の専門や興味を知った先生方がIBMのパソコンを使った分析の仕事は私にぴったりだと思ったのでしょう、タタ氏のオフィスに私を紹介してくれたのです。そして1年もしないうちに私はフランスから奨学金をもらい、今でいうMBAの資格を取るためにアジア工科大学(AIT)で生産工学及び経営工学(Industrial Engineering and Management)を勉強するために留学できることになったのです。
AITでは、学生連合のリーダーをしていたので、当時、学術担当副学長だった西野文雄先生と直接話し合いをすることもありました。 AITにいた2年間で、彼のことをよく知るようになったある日、西野先生が「普通、学生運動のリーダーはあまり成績が芳しくないものだが・・・」と前置きしながら、私の学業成績の良いことにふれ、日本の東京大学で始める“Foreign Student Program in Civil Engineering”に参加しないかと誘ってくれたのです。


西野先生とともに

P 東京大学ではどのような研究をされていたのですか?

S 私の専門は機械工学と都市交通のコンピューターシュミレーションでした。また、宮本和明先生(現東京都市大学教授)とともに、道路沿線の騒音が周辺住居の賃貸価格に及ぼす影響や、騒音の影響を少なくするための方法に関する論文を書いていました。私の専門はコンクリートや構造物のような土木工学の基礎的な分野とは離れていたため、参考になる本もありませんでした。そこで、私の指導教官である中村英夫先生が、当時つくばに設立されたばかりの国立環境研究所(NIES)の図書室と研究室で勉強するようにアドバイスしてくれました。
当時はまだGISが生まれる前のことでしたが、私はすでに関連した仕事の経験もありましたので、コンピュータを使ったモデルの改良を行うことにしました。当時、私は学科で初めてのUNIXコンピューターにコードを書き入れたのです。その頃、ESRI(ArcGISの制作会社)はアジアでソフトウェアを販売していなかったので、交通や土地利用に伴う環境問題などを地図上で表示するために、自分たちでプログラムを書いたのです。
※ESRIは米国企業で地理情報システムのソフトウェア、データ、出版提供を行っている。

P 学生として過ごした東京で何か心温まる思い出はありますか?

S とてもエキサイティングな経験をしました。あなた方とは少し違うかもしれません。私は新婚で妻と一緒に東大に来ており、妻も学生となって東京大学の医学部で医学博士号を取得しました。子どもたち二人は日本で生まれています。私の他にも妻子と一緒に来た人がいました。ですからその頃の大学での集まりといえば、学生だけでなく家族全員が含まれていたのです。
Nuntikorn (N) 家庭生活と研究の両立は手に余る大変さでしょう。両立させるというチャレンジ精神はどこで培ったのでしょうか?

S 秘密を教えてあげましょう。私の先生は私に「ただ勉強だけしろ」とは言いませんでした。先生はいつも私をわが子のように扱ってくれ、とても楽しかったのです。本当に特別な毎日でした。週末には先生とフィールド旅行に行き、まだ若かりし清水英範先生がよく一緒に来てくれました。我が家の手作り弁当を食べた清水先生はそれを”Hando-meido bento”と呼んでいました。私たちは研究室でくつろぎ、時々寝泊りもしました。もっと貴重だったのは、中村先生が研究テーマとは離れた内容で、一緒に仕事をする機会を与えてくれたことです。先生は非常に権威のある教授でありながら、学会に行くときにはいつでも、私たちと同行してくれました。私は先生と一緒に日本の各地を旅行し、様々な場所で日本語での発表もしました。


P その日本語はどのようにして学ばれたのですか?

S 私たちは先生の奥さま方から日本語を学びました。私たちのクラスは西野章代先生に教えていただきました。授業は昼休みに行われ、子どもも含め家族全員が大学に来て学びました。その当時は他に楽しみがなく、よく日本のテレビ番組を見ていました。
※当時、土木工学科(現社会基盤学科)では学科で日本語クラスを用意し、家族も含めた留学生への日本語教育を行っていました。(赤池)

N それならばホームシックにはかかりませんでしたか?

S インド人のベジタリアン用の食材を探すのには苦労しました。扱っている食料品店はなかったので、日本の材料を使ってインド風に味付けしたものを自分たちで作らなければなりませんでした。私たちはインド哲学とサンスクリット語を専門にされていた故中村元先生(東京大学名誉教授、インド哲学者、仏教学者)とともにインド文化愛好会を立ち上げ、ともにインドの祝祭を祝いました。私は何度か精進料理にも挑戦しましたがインドのベジタリアン料理よりもおいしく感じられました。ホームシックにかかりそうなときには、長い手紙を書きました。当時は国際電話が4分で3000円と、とても高額でした。それに、KDDの電話ボックスに行かなければなりませんでした。
今はスカイプやフェイスタイムがありますが、自分の子どもたちには、これらが視覚的には申し分ない交流であっても、本当に出会うことで得られる価値は失われるのだということを言っています。当時の先生ご家族は、日本での守ってくれる家族のような存在であり、子どもたちの面倒もよくみてくれました。


P 学位を取得した後、日本にとどまるのかインドに帰るのか、どのように決めたのでしょう。

S 当時は外国人が日本で働ける機会はあまりありませんでした。日本の会社への就職先を世話してくれた教授に、もしもJICAで働けば、間接的にであるが自分の国のために働くことができるといわれました。IIT卒業生はアメリカに行くのが普通で、私のようにタイから日本へ留学するものはほとんどいないでしょう。ですが、日本で働いてみて私は重要なことを学びました。アメリカで勉強した学生は、おそらく生涯アメリカに住み続けようとし、そのような人はやがて祖国とのつながりを失っていきます。ですが、私は全く違う経験をしました。私は祖国インドへのとても強いつながりを保ちつつ、尚、自分が学んだ場所としてタイや日本に強い愛着を持つようになったのです。
私は日本のパスポートを持っていませんが、日本を第二の故郷と思っています。東京大学で受けた教育は私に「祖国をわが母のように愛せよ」という使命を与えてくれました。地球規模で世界がとらえられる時代、あらゆる国の最高学府の卒業生たちが世界のトップ企業や組織で働いています。私は彼らにいつもこう問います、「もしも私たちが敬愛する自分の祖国を助けることができなければ、誰がそれをやるだろう?」と。日本人のエリートの多くは日本の国を良くするために働いています。しかし、私はアジア出身の多くの才能あるエンジニアが(海外の)IT企業や金融会社で働いているのを見てきました。私から見ればそのことは、特に社会の問題を解決するために、私たちの才能の最良な使い方ではないと思っています。


P あなたはとても前向きで楽観的な方ですね。その秘訣はなんでしょうか?

S 基本的には二つの言葉を実践しているからでしょう。“学ぶことと手本になること”です。いつも学ぶ意思を持つこと、そして誰かの手本になろうとすることです。私は幾人ものお手本になる教授たちから多くのことを学ぶ幸運に恵まれました。ですから私は私の後輩や周囲にいる人たちの手本になれるようベストを尽くします。学ぶことと手本になることはコインの裏表のようなものです。私はこのことを敬愛するタイ人の大切な親友、Dr. Art-ong Jumsaiから学びました。彼はNASAで火星に初めて着陸したバイキング3の着陸ギアを設計した傑出した科学者ですが、故郷タイに戻ることを決意し、子どもたちの才能や人間的価値を育てることに奉献する完全に独立採算の学校を立ち上げたのです。私と妻も彼のアドバイスに従い、2000年にフィリピンに小学校を設立しました。
あなたたちは、まだ若いのだからこれからもっとたくさんのことを成し遂げてくれるでしょう。


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