第5回「ブレジネフ時代の中央アジア政治史再考―中央・地方関係を中心に」

UTCMES定例研究会の実施報告

報告者:地田徹朗(北海道大学スラブ研究センター)
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2012年12月15日、駒場キャンパス18号館メディアラボ2にて、第5回定例研究会が行なわれました。
 以下に研究会の報告を掲載します。

 報告者はこれまで、ソ連時代の中央アジア史を、中央と地方(共和国)の政治的関係、水利開発と「社会主義的近代化」の側面から研究してきた。今回の報告は前者のテーマに該当するものであり、ソ連共産党アルヒーフ(公文書)資料から分かる、ブレジネフ時代のソ連中央(ソ連共産党中央委員会)による民族共和国への垂直的統制の実態について、フルシチョフ時代との比較をふまえた上で検討した。報告者は、後述のとおりソ連を帝国と捉えている。本報告では、ソ連の中央・地方関係に関する分析を通じて、「帝国」としてのソ連のブレジネフ時代におけるその特徴について見取り図を示そうと試みた。本報告が、ソ連についてだけでなく、帝国(論)一般の理解に貢献するところがあったならば報告者にとって望外の喜びである。

 ソ連はマルクス・レーニン主義という普遍的イデオロギーに立脚し、内部に住む多様な諸民族に対し領域的自治を付与することでその多様性・個別性を保持するという特徴をもった帝国だった。また、第二次世界大戦後、冷戦下において東欧諸国や第三諸国に社会主義的近代化モデルを輸出することで、その勢力圏・影響圏の拡大を図ったという点でも帝国的だった。ソ連崩壊後、帝国としてのソ連について様々な定義づけがなされた。スリョスキンの「個別主義の帝国」、マーチンの「アファーマティヴ・アクションの帝国」、池田嘉郎の「共和制の帝国」などである。報告者も過去には「多民族領域帝国」という呼称を用いたことがある。また、塩川伸明やローダーは「民族連邦制」という国家制度に着目した。このように帝国としてのソ連には様々な呼び方・定義が存在するが、これら諸定義に通底するのは、帝国そのものは前近代から存在した政体だが、ソ連は帝国政体をモダニティに適合させることに成功したという点であろう。ここでいうモダニティの内実は、疑似国民国家的な民族領土の付与、民族カードルの育成、民族言語・文化の建設、及び「後進民族」地域の「社会主義的近代化」をつうじた急速な経済発展だったと言える。

 過去に報告者は、カザフスタンを事例として1955年から1991年までの共和国共産党エリートの経歴データの特徴とその変化について分析した論考を執筆したことがある。そこでは、ブレジネフ時代をつうじて共和国共産党エリートの交替率が低下しただけでなく、カザフ共和国内部での勤続年数が長い人物が民族の別なく共和国共産党エリートに登用される傾向が顕著になり、また、ロシア人など非カザフ人であってもソ連中央や他共和国からの異動ではなく、カザフスタンで就職・出世してカザフスタンで職歴を終える人物の割合が増加したことが明らかになった。このように、ブレジネフ時代には非共和国名称民族を含める形で「コレニザーツィヤ」が進展したわけだが、では、ブレジネフ指導部はどのように共和国政治を統制・監督していたのだろうか。ソ連は疑似国民国家たる民族共和国を介した間接統治体制を敷いていたわけだが、ソ連中央は独裁的に共和国政治に干渉・介入する権利を留保していた。よって、その時々のソ連中央による共産党のラインでの共和国政治の垂直的統制の実態を検討することが、ソ連の中央・地方関係(帝国の中核・周縁関係)を明らかにすることにつながる。本報告では、ロシア国立現代史文書館所蔵のソ連共産党中央委員会組織・党活動部カザフスタン・中央アジア諸共和国課のアルヒーフ資料を利用し、ブレジネフ時代のソ連中央による中央アジア5共和国への垂直的統制の一般的特徴と、共和国ごとの特殊性の双方についてまとめ、そこからブレジネフ時代ソ連とは何だったのかについて考察した。

 まず、フルシチョフ時代の共産党による垂直的統制の特徴について、カラカルパクスタンでの事例に基づいて説明した。1959年から61年にかけて発生したカラカルパク自治共和国アムダリヤ地区ソフホーズ「マンギト」での綿花生産量の水増し事件に端を発し、ウズベキスタン共産党中央委員会第一書記ラシドフをも巻き込んだスキャンダルにソ連中央がどのように対処したのかという事例を取り上げた。その結果、1. フルシチョフ指導部は下からの告発に入念な注意を払っていた;2. フルシチョフ指導部は、民族共和国内部の地区レベルの事案であっても職員を現地に派遣して問題解決に当たらせることがあった;
3. 共産党による垂直的統制は機能していたが、ソ連中央による地方への介入の仕方はアドホックかつ選択的だった、ことが明らかになった。1960年のいわゆる「リャザン事件」以降、生産量の不正改ざんや水増しにモスクワは目を光らせていた。このカラカルパクスタンでのスキャンダルと類似する事例は他共和国・地域でもみることができる。

 では、ブレジネフ時代の共産党による垂直的統制はどのように変化したのか。1966年3月ソ連共産党中央委員会総会で、ブレジネフ指導部は「カードルの信頼」、幹部安定化政策へと舵を切る。その直接の理由は、1957年の「反党グループ事件」や1964年10月総会でのフルシチョフの失脚にみられたような、地方エリートの水平的な一致団結がソ連の帝国的基盤たるソ連中央の独裁的な権力をも掘り崩し得ることへの危惧(「恐怖心」とも言い得る)だった。そして、アルヒーフ文書の精査により、1. フルシチョフ時代のようにアドホックに職員がソ連中央から派遣されて不正を精査されるようなことはなく、問題が生じた場合、不正の告発が下からあった場合でも共和国側に調査を委ねる傾向が生じた;2. 時間の経過と共に残されているアルヒーフ文書そのものの絶対数が減少しており、ソ連中央が何らかのアクションを起こした事案そのものの数が減少した;3. ソ連中央による共和国への垂直的統制は非公式な電話を通じて、あるいは、オフィシャルな行事の機会に限定され、共産党の統制そのものが「ルーティーン化」した、以上のことが中央アジア5共和国をまたがる共通の特徴であることが分かった。さらに、トルクメニスタンでの事例から、従来はソ連中央の「お目付役」と言われることの多かった共和国共産党中央委員会第二書記の役割にも限界があることが分かった。

 同時に、アルヒーフ文書からブレジネフ時代初期の共和国ごとの政治の特殊性も明らかになった。クルグズスタンでは、世代・経歴・政策方針の違いを理由として共和国共産党中央委員会第一書記ウスバリエフと閣僚会議議長マンベトフが対立した。この両者の対立は氏族や地域に基づくものではないと考えられ、アルヒーフ上でもそのような批判もなされていない。先制攻撃を仕掛けたのはマンベトフだったが、ウスバリエフをトップとする共産党側はマンベトフを含む閣僚会議職員の諸手当の不正受給スキャンダルを暴き、1968年1月にマンベトフを解任に追いやった。タジキスタンでは、市民による告発により地域閥の存在が浮き彫りになった。北部レニナバード州出身者が、サマルカンドやブハラ出身者を排除することで共和国共産党・政府幹部の要職を独占したことが批判される一方で、共和国共産党中央委員会が山岳バダフシャン自治州の政治的自律性を抑え込むことができず(「出身地、親族関係、個人的忠誠心に基づく要員選抜」)、逆にソ連中央の力を借りることで山岳バダフシャン自治州党委員会第一書記ダヴリャトカダモフを解任した。トルクメニスタンでは、共和国共産党第一書記オヴェゾフとその取り巻きによる贈収賄・計画指標水増しなどの不正や人事における氏族主義・縁故主義の存在が就任当初から何度も告発されており、1969年12月にオヴェゾフは解任された。後任のガプロフの下で、今度はオヴェゾフ時代の党・政府高官の不正が告発され、1975年に共産党中央委員会第二書記ルイコフ、同書記アタエフ、閣僚会議議長オラズムハメドフが立て続けに解任された。特に、後者2人は経歴詐称が表面化したことでの更迭だった。

 このように、クルグズスタン、タジキスタン、トルクメニスタンの3共和国では共和国共産党トップを巻き込む権力闘争ブレジネフ時代初期に激しさを増しており、ソ連中央も共和国政治への介入の仕方・程度は様々だったが、少なくともその行方を注視していたことが分かった。これに対し、カザフスタン、ウズベキスタンでは、このような下からの不正告発や権力闘争を示唆するアルヒーフ文書の数がそもそも少なく、ブレジネフ時代当初から共和国政治が安定していたことが伺われる(ウズベキスタンについては、フルシチョフ時代中期、共産党中央委員会第一書記にラシドフが就任した時に権力争いが生じたようだ)。

 また、少なくとも、トルクメニスタン、カザフスタンについては人事における「氏族主義」、タジキスタン、ウズベキスタンについては「地域主義」を批判するアルヒーフ文書が存在する。しかし、これらと近親者登用、つまり「縁故主義」がしばしば混同されている。また、「氏族主義」については、カザフ人の大きな氏族連合である「ジュズ」による派閥形成を批判する文書が存在するものの、より日常生活の中で有意だと考えられる「ジュズ」より下位の氏族的な出自は明記されていない。これはトルクメン人についても同様である。これは、カザフ人、トルクメン人の間での「氏族」概念が、日常的に重要な政治的・経済的なユニットから、人と人との間の「近さ」をはかる尺度の一つへと変容・近代化したことを示唆している。

 最後に、以上の考察を踏まえ、過去の報告者による研究成果を加味した上で、ブレジネフ時代の帝国としてのソ連の特質について見取り図を示した。マルクス・レーニン主義をイデオロギーの中核に据え、「ソヴィエト市民」としての一体性を確保しつつ、間接統治制度に基づいて疑似国民国家を共和国側が自律的にコントロールし、旧「後進民族」地域たる中央アジアで近代化と経済発展を進展させることができたという点で、ブレジネフ時代はソ連が最も「帝国」として機能していた時期だと考えられる。しかし、民族共和国内部での幹部安定化政策、共和国政治をめぐる垂直的統制のルーティーン化、共和国エリートのコレニザーツィヤ傾向、これらによって、共和国政治の自律性や共和国エリート間の一体性は大いに高まった。また、「自然改造」にみられるような社会主義的近代化と密接にかかわる理念・イデオロギーの内側からの空洞化が進行し、社会主義体制の正統性を掘り崩す役割を果たした。このような両面的なプロセスが同時進行で起こったのがブレジネフ時代だった。帝国の隆盛と危機は紙一重だったわけである。そして、旧「後進民族」地域での経済発展が、第三諸国(南側諸国と言うべきか?)に一つのモデルを提供し、ソ連の対外的な影響圏の拡大に寄与したことを考えると、冷戦下での内政(民族政策・開発政策)と外交政策が実は密接にリンクしていたと考えられる。このような、冷戦の文脈下で、帝国としてのソ連の内政と外交の結節点や関係性を明らかにするような研究が今後の課題となってくるとの見通しを示した。

 フロアからは、「帝国」概念の定義について、フルシチョフ時代とブレジネフ時代の違いについて、大別するとこの2点に関する質問があった。前者については、帝国の中央・地方関係の実態面の検討の前の帝国の概念規定をきちんと示しておくべきだとの意見に対して、帝国を自称した国家を考えると多様な帝国のあり方が考えられるため、地方統治の実態からソ連の帝国性を考えるべきだという意見も出た。報告者は、帝国一般は間接統治制度を有していることをその一つの特徴とするが、実際の中央・地方関係について、中央による地方政治への直接介入の度合いが高いか、地方の自由裁量の幅が大きいか、時期によって大きな違いがあると差し当たり応答した。報告者は、前者を「直接統治的」、後者を「間接統治的」とし、現実の中央・地方関係は両者の中間のどこかに位置すると述べた。しかし、このタームは統治「制度」に係るものであり、統治の「実態」として中央による地方への介入の度合いを述べる上で用いるにはそぐわないし、植民地時代のアフリカなどで用いられているタームとはかけ離れているとの意見も出された。さらに、中央による地方政治への介入の「実態」だけでなく、地方統治に関する「制度」もより集権的な時期と分権的な時期があり、「制度」と「実態」の両面から帝国の中央・地方関係を捉えるべきとの指摘を受けた。

 後者の質問については、フルシチョフ時代のアドホックな共和国政治への直接介入とブレジネフ時代の共和国政治は共和国に任せる姿勢に決定的に違いがあると応答した。トルクメニスタンやクルグズスタンでは現実に共和国トップエリートの交替がブレジネフ時代初期に起きているが、その根拠となり得る情報調査も基本的には共和国側が行っていることがアルヒーフ資料から分かった。その理由が、前述した地方エリートが一致団結することで体制を危機に陥れることができることへの恐怖心で、フルシチョフ時代の中央・共和国関係からブレジネフが学んだ教訓だったと述べた。これに対し、恐怖心なる主観的要因ではなく、国際情勢にせよ内政要因にせよ、なにかブレジネフ時代のカードルの信頼・幹部安定化を方向づける何か客観的な要因はなかったのかとの問いも出された。また、帝国内統治と東欧諸国など帝国外への影響力行使との関連性についても質問が出た。

 ブレジネフ時代の中央・共和国関係をより広い世界史的な文脈から捉えること、これは報告者のこれからの課題である。この問題に取り組んでこそ、筆者が目指している1960~70年代ソ連論を包括的に描くことができると感じた。論点が整理されたと共に、今後の課題も見えたという意味で有意義な研究会だった。研究会を組織していただいた東京大学・藤波伸嘉さん、研究会に参加していただいた皆さんに感謝したい。
 
(執筆:地田徹朗)

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