第4回「近代ギリシアにおけるヘレニズム」

UTCMES定例研究会の実施報告

報告者:村田奈々子(法政大学非常勤講師)
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 2012年11月17日土曜日15:30-17:00に、駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム2にて、第4回定例研究会「近代ギリシアにおけるヘレニズム」が行なわれました。
 以下に研究会の報告を掲載します。

 近現代のギリシアの歴史や文化を研究していると、19世紀から今日にいたるまで、公的なコミュニケーションの領域において、ヘレニズム(Ελληνισμός)という語が頻繁に使われているのに気づかされる。ギリシア語で書かれた新聞・雑誌の記事、エッセイ、学術的著作、議会演説などに、ヘレニズムという語を見いだすのは、それほど難しいことではない。それは、ギリシア国内にとどまらず、ギリシア国外のギリシア人コミュニティをふくめてのことである。

 このヘレニズムという語の意味するところは必ずしも明確ではない。ヘレニズムは、時代や状況によって、変幻自在にその意味内容を変えている。一方で、この用語は、その意味の多様性にもかかわらず、同時代のギリシア社会の読み手や聞き手に、ある程度理解されていたふしがある。彼らが、いちいち、ヘレニズムの定義を要求するようなことはおこらない。書き手/話し手と読み手/聞き手のあいだに、ヘレニズムに関する、暗黙の了解が存在していたかに思われる。

 ヘレニズムは、多様で雑多な要素を含みつつも、近代のギリシア人のアイデンティティと結びついた概念であった。このような用法は、19世紀はじめのギリシア王国という民族国家の誕生と密接なかかわりを持つ。近代国家形成の途上にあったギリシアにおいて、ヘレニズムは、ギリシア人であるならば当然共有しているであろう同胞意識を前提に「想像の共同体」を思い描かせる語として、ギリシア人一般の間に定着していったのである。

 本発表では、19世紀なかばから20世紀はじめの、具体的なヘレニズムの使用例を紹介し、意味内容を明らかにした。さらに、そのヘレニズムが、当時ギリシアあるいはギリシア人が直面していたどのような問題を背景に生まれたのかを検討した。

 はじめに、ヘレニズムの一般的な理解、およびギリシア世界における、古代、中世での意味を説明した。今日一般的に、ヘレニズムは、19世紀の古代史家グスタフ・ドロイゼンによって示された、アレクサンドロス大王とその後継者の時代に、ギリシアと東方の文化が融合した時代を指す用語として理解されている。ギリシア世界において、ヘレニズムは、古代には、「正しいギリシア語」という文法に関連する用語であり、中世では、キリスト教を対抗概念とする「異教信仰」を意味した。

 このような用法とは異なる、近代におけるヘレニズムの用法は、19世紀のなかば、とりわけ1853年にはじまるクリミア戦争以降に顕著にみられるようになった。この戦争は、世界史的には、ヨーロッパの大国が敵と味方にわかれて対峙したことにより、ナポレオン戦争のあと維持されてきたヨーロッパの協調が崩れる先触れとなった。一方、ギリシア王国にとって、クリミア戦争は、歴史的にギリシア人が住み、ギリシア文化が影響を与えた領域への国土の拡大を目指す「メガリ・イデア」実現の最初の機会を提供した。これ以降、ギリシアの領土拡張運動は、ギリシア国家およびギリシア人の主たる関心でありつづけた。

 このような時代背景のなかで、どのようなヘレニズムの用法がみられたのか。報告では、6人のギリシア人知識人――コンスタンディノス・ドシオス、イオアニス・フィリモン、コンスタンディノス・パパリゴプロス、ディオニシオス・セリアノス、パヴロス・カロリディス――の著作および演説テクストから、9つの具体例を紹介した。

 これらの具体例から、3つのヘレニズムの意味が抽出される。第一に、ギリシア人、あるいはギリシア人の総体としてのギリシア民族を指す、人としてのヘレニズムである。第二に、一定の領域を包摂する、地理的空間としてのヘレニズムである。第三に、ギリシア語、あるいは正教を基盤とする、優越する文化としてのヘレニズムである。これら3つのヘレニズムは、きわめてナショナリスティックな特徴を持ち、同時代の「メガリ・イデア」の正当性を説明する便利な「道具」としての役割を果たしていることが指摘できる。一方で、同時代のギリシア人のなかにも、ギリシア人のプライドと結びついたヘレニズムの使用に対して批判的な態度をとっている事例も紹介した。

 「メガリ・イデア」の夢は、1922年の小アジアでのギリシア軍の敗北によって挫折した。しかし、ヘレニズムは、その後のギリシア史の中で生きつづけ、多様に定義されている。様々な時代のヘレニズムの具体的用法を集積し、個別研究を積み重ねることによって、ヘレニズム概念からみる、ギリシア人アイデンティティの実相を明らかすることが今後の課題であることを述べて、報告を終えた。

(執筆:村田奈々子)