解説
以下は、「美味しさの科学」ゴードン・シェファード著の解説を日経サイエンス2014年7月号に寄稿したものです
東原和成 ┃「美味しさの科学」┃ゴードン・シェファード著、小松淳子訳(インターシフト、2014年)
解説-「美味しさの科学」
和食が世界無形文化遺産に指定され、日本食が注目されている。また、日本料理には日本酒、という定番に加え、最近成長が目覚ましい日本ワインを合わせるシーンやレストランが増えるなど、食文化の挑戦と進化はとどまるところを知らない。その後押しになっているのが、美味しいものを食べて幸せになりたいという、万人共通の願いである。では「美味しさ」はどこで感じているのであろうか。この20年くらいでそのメカニズムがかなり解明されつつあり、それをまとめたのが本書「美味しさの脳科学」である。
著者のゴードン・シェファード博士は、エール大学の神経科学者であり、神経科学の教科書としてよく使われる『Neurobiology』の著者でもある。また、Journal of Neuroscienceという神経科学の学問領域では定評のある雑誌の編集長を長年務めてきた大御所でもある。「嗅覚神経科学領域の父」とも呼ばれており、過去半世紀の神経科学領域の脳研究の進展を見て来たシェファード博士ならではの記述の正確さと洞察力には目を見張る。
第一章では、ワインと料理のマリアージュを話題に、美味しさにおける香りの重要性が説かれる。美味しさは、舌で感じていると思っているひとがほとんどであろうが、実際に重要なのは味よりも香り、すなわち嗅覚である。鼻をつまんで食べたり飲むと嗅覚の重要性がよくわかる。また、喉越しから鼻にもどってくる香り(レトロネーザル経路の嗅覚)も重要で、ヒトはこの喉越しから匂い知覚ができる生物であるからこそ食文化が発展したというシェファード博士独自の説が展開される。そして、ニューロガストロノミーという新しい学問領域が提唱される。
次に、シェファード博士自身の研究を話題に、匂いがどのように感知されるか、そのメカニズムの解明にとりくんだ歴史が語られる。弟子の研究成果が多く紹介されるが、シェファード博士がいかに多くの弟子を育てたかがわかる。また、実際に美味しさを感じるときは、匂いだけでなく、味、テクスチャー、視覚、音などの五感が総動員されるが、それに加えて、シェファード博士は、ヒトは口のなかでの咀嚼の仕方に特徴があり、それが美味しさの味わいに重要だと言う。ブリア・サヴァラン著の『美味礼讃』の文章が頻繁に引用されるが、サヴァランの文学的な風味の味わいの表現を、シェファード博士が科学的に説明しながら、最先端の五感の科学的知見が紹介される。
最後の章では、いよいよ美味しさを感じる脳のしくみの話になる。好き嫌いという情動を決める脳領域、経験によって味わいが変化するメカニズム、美味しさと記憶の関係などがわかりやすく語られる。なかでも、嗅いでいるのに気がついていないという「盲嗅」があるのかという話は大変興味深い。また人類は嗅覚が本当に退化しているのか、という問いに対する挑戦的な議論も展開される。そして、ヒトの健康と関連して、美味しいものを食べることの意義に迫る。
内容は「美味しさ」に関するものであるが、多方面から考察されているため、嗅覚や味覚をやっている研究者だけでなく、他の脳科学研究をやっているひとにとっても大変勉強になる本である。また、学術性の高い話が多いものの、「美味しさ」は食品産業にとっても重要な要素であるため、企業の人たちにも役立つ内容かと思う。日本の料理文化が世界的にも認められた今、日本人として日本の食文化を益々進化させていくためにはどうしたらいいかを考えるうえでも必読書である。