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コラム

以下は、「ワイナート」2009年9月号に掲載されたコラムです(京大伏木先生と見開き連載第3弾)

東原和成 ┃ ワイナート ┃ 2009年9月号

嗅覚を強くする方法はあるか?

 匂い分子は、世の中に数十万種類あるともいわれている。ワインの香気からも数百種類以上の匂い分子が見つかっている。これら多種多様な匂い分子は、鼻の嗅上皮にでている約350種類ほどの匂いセンサータンパク質(嗅覚受容体)で感知される。一つの匂い分子が複数の受容体を活性化し、その組み合わせは匂い分子によって違う。その結果、それぞれの匂い分子が、違った香りに感じられる(図)。匂いがバラエティーに富むのはそのためだ。

 嗅覚受容体が感知した匂いの信号は、大脳辺縁系に伝わり、情動や記憶に働きかけ、私たちに喜びや心地よさをもたらす。「香りという無限の組み合わせを感じる嗅覚というものは、動物をそれ自体で喜ばすものである」。科学の父ともよばれるレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉である。匂いの受容メカニズムが適確に表現されているが、科学が全く進歩していなかった時代の言葉とは思えない。

 では、匂いと受容体の組み合わせは、人間なら誰もが同じなのだろうか。もし同じだとすると、感度も感じ方もみんな同じであるはずである。実は,嗅覚受容体をコードする遺伝子に個人差があり、特定の嗅覚受容体遺伝子が機能しなくなっている場合がある。そうなると、匂いの組み合わせのコードが変わるので感じ方も変わる。

 また、ワインにも含まれる足の裏の匂いであるイソ吉草酸を全く感じられない人が、数十人にひとりいる。汗に含まれるある種の匂い成分を全く感じないひとも十人にひとりはいる。これも嗅覚受容体遺伝子の変異によるものと報告されている。ただ、実際のところ、このような遺伝的な要因はまれであり、匂いを感じないといって耳鼻咽喉科を訪れる人の半分以上は、鼻のなかの物理的な問題(鼻が詰まっている、鼻腔に障害がある)でにおえない人だそうである。

 では、感度はどうであろう。あまり匂いを感じないひとでも、匂いに対する感度は、訓練次第でよくなるだろうか。答えはイエスである。テイスティングの訓練だけでなく、常日頃から食事の時に意識して食べるようにしても十分ににおえるようになる。ぎりぎり感じられる濃度を閾値というが、匂いをなんらかの文脈で覚えていくことによって、匂いの認知閾値が低くなっていく。脳が鍛えられて、その匂いの情報が伝達されやすくなるような脳神経回路へと変化したためである。食の美味しさを享受するためには、老若男女問わず食育(経験)が必要なわけである。

 匂いの感度には、性差もある。匂いを感じる大脳辺縁系の領域の神経回路には、性差があるからである。前述の汗の匂いを男性と女性に嗅がせると、脳で活性化される部位に違いが見られる。女性にはいい匂いでも、男性にとっては嫌な匂い、またその反対もある。感度も違う。たいていの場合は、女性のほうが男性より感度がいい。しかし、感じ方が安定しているのは男性のほうで、女性は性周期とともに感じ方が変化する。

 民族による違いも大きい。それは遺伝的な要因だけでなく、育ちなど環境的な要因も大きい。アザラシなどを捕まえて食するイヌイット族は、動物臭に対する閾値が低い。国によって人々の匂いの感じ方も表現のしかたも違う。つまり、ワインの香りの好き嫌いや評価は、個人差、性差、国差があるということであり、ワインの香りの絶対評価などは存在しないのである。

 今回紹介したように、ある匂いを鼻や脳で一度覚えると、その匂いに対する認知閾値はさがる(感度があがる)。そうなると、逆に、その匂いが鼻につくようになる。コルク臭とかを敏感に感じるソムリエの感覚は、必ずしも一般の消費者のそれとは同じというわけではない。私はワインの全体の香りを素直に楽しみたいので、ワインのひとつひとつの香りを覚えないようにしている。覚えてしまうと、自然に脳がその匂いを抽出してしまって、せっかくのワイン全体が創りだす芸術的な香りのハーモニーがわからなくなってしまうからである。ワインとの出会いの感動と幸せも、ワインに対する無知による恩恵であることもあるということである。

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