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コラム

以下は、「ワイナート」2009年5月号に掲載されたコラムです(京大伏木先生と見開き連載第1弾)

東原和成 ┃ ワイナート ┃ 2009年5月号

異臭は本当に臭いのか?

「もっとも人間的なもの、それは匂い・・」という言葉を残したココ・シャネルの創った香水のなかで一番有名なものは「シャネルNo.5」である。なぜシャネルNo.5は斬新でセンセーショナルなデビューをしたか。それは、良い香りを混ぜれば良い香水ができるという定説を打ち破り、アルデヒド類といった単独ではどちらかというと嫌な匂いを、ふんだんに使った初めての香水だったからだ。その後、香水には必ずといってもいいくらい臭い匂いを少しいれるようになった。そうすると香りの奥行きの深さが広がるのである。

数百種類の匂い物質の混合臭であるワインの香りも同じである。それ自体では臭いとされる硫黄化合物(メルカプタン類など)は、少量含まれることによってワインの香りにプラスに働く匂い物質である。例えば、硫黄系の匂いはソービィニヨン・ブランなどの白ワインの香りには重要である。シェリー酒に含まれるというアルデヒド類もその重要な香り成分でもある。実際に、ワインのなかに含まれる匂い成分を分析してみた。ガスクロマトグラフィー質量分析計を改造した機械を使うと、ワインから発せられる数百種類の匂い物質を分離できるだけでなく、それぞれ分離された匂いを実際に鼻で嗅いでみることができる。すると、白ワインにも赤ワインにも芳しい香りだけでなく臭い匂いが入っていることがわかる。

また、ブレタノミセス酵母が発酵中にはえると、4-エチルグアイアコール、4-エチルフェノールなどのフェノール性化合物が発生する。そうしたワインは馬小屋のような匂い、言い換えればいわゆるフェノレ臭がすると言われ、醸造家たちは失敗作だと判断する。あるいはイソ吉草酸などの低分子脂肪酸が発生することもある。こちらは足の裏のような、納豆のような匂いで、やはりこの匂いは失敗とされる。しかし、これらの匂いは本当に臭いのだろうか?

面白い実験がある。イソ吉草酸を、おやじの足の裏の匂いですよって言って嗅がせた時と、納豆の匂いですよって言った時とで、脳のどの部位が反応しているのかを示す脳イメージング(機能的MRI法)で比較してみると、異なった脳イメージパターンが得られたという。すなわち、同じ匂いでも「何を考えながら嗅ぐか」あるいは「与えられる情報」によって感じ方が変化するということである。

香りの感じ方は、そのときのコンテクストや文脈だけでなく、記憶や経験にも影響される。上記のフェノール性化合物も、馬と一緒に遊んだとても良い思い出をもっているひとに対しては、涙がでるような懐かしい気持ちにさせることもあるだろう。マルセル・プルーストの『失われたときを求めて』で、マドレーヌを食べたときに過去の記憶が一気に思い出されるという有名なシーンがあるが、香りと記憶のつながりは強固だ。香りの情報は、視覚と異なり、直接、本能や情動や記憶を司る脳領域(扁桃体、視床下部、海馬)に入力されるからである。

つまり、この匂いは良いとか悪いとかの判断、また、この匂いは好きだとか嫌いだとかという好みは、同じ匂いでも、情報や経験によって敏感に変化してしまうような紙一重なものなのである。臭い匂いとレッテルを貼られた匂いがつくりだす意外な香りの奥深さ、それに対する人それぞれの感じ方のバラエティーさ、そして、それらの匂いと食材との思いもかけないマリアージュ、このような香りのお遊びがあるのもワインが芸術品といわれるゆえんではないかと思う。冒頭で紹介したシャネルの言葉のとおり、匂いは人間の心のように変化自在で感じ方も予測がつかないから面白いのである。

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