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解説

以下は、化学1月号に掲載された原稿です

東原和成 ┃ 化学 ┃ 2005年1月号

におい分子を感知する嗅覚受容体の遺伝子の発見

 五感を全てリストしてくださいという質問をすると、視覚、聴覚、味覚、触覚、そして、う~ん、あとなんだっけ、そう、においだ、臭覚かな?という答えをよくきく。正確には、嗅覚である。それくらい認知度が低い、普段意識していない感覚である。一方で、人間以外の生物では、嗅覚は生きていくうえで絶対に欠かせない感覚であることは言うまでもない。2004年度のノーベル医学生理学賞は、嗅覚の謎の解明において大きなブレークスルーとなった発見、すなわち「匂い受容体遺伝子の発見」が受賞対象となった。コロンビア大学のRichard Axel博士とフレッド・ハッチントンがん研究所のLinda Buck博士である。対象となったオリジナルの発見が記載されているのは、1991年の米国セル誌の論文である(文献1)。

 ところで、「におい」ってなんだろう。色は、赤(長波長)や青(短波長)、味は、甘い(糖など)、苦い(アルカロイドなど)、辛い(カプサイシンなど)など、ある共通の感覚と概念があり、それぞれの物性がわかっている。一方、においに関しては、分類があいまいであるとともに、視覚や味覚に比べて多種多様で、その数は数十万種類ともいわれている。数十万という数は、誰かが数えたのではなく、二百万くらいといわれている低分子有機化合物のうち、4つか5つにひとつがにおうものであるという経験則からはじきだされた適当な数値である。匂い物質は、分子量30から300程度までの低分子化合物である。例えば、脳内ホルモンであるセロトニンの基本骨格はインドールという糞臭の物質であり、ドーパミンやアドレナリンの骨格は、バニラのにおいであるバニリンと似ている(図1)。つまり、匂い物質は特殊な分子ではなく、揮発性という性質をもっている低分子有機化合物であればどんな物質でもにおう物質になりうる。でも、揮発性でも酸素や二酸化炭素はにおわない。においは、様々な食べ物、植物、動物から発せられ、嗅覚が退化したといわれている人間でも1万種類くらいは識別できるといわれている。こんな香りの多様性が、我々の食生活を豊かにしていることは言うまでもない。

 さて、「におい」として脳で感知され、識別される仕組みは、長い間、謎のままであった。半世紀ほどまえに、いくつかの説が提唱された。Amooreは、有香分子の立体構造と鼻腔内の受容部位が一致したときににおいを感じるという立体化学説をだした。それによると、エーテル様、樟脳様、ムスク様、花香様、ペパーミント様、刺激臭、腐敗臭の7種の基本臭に分類できると考えた。一方、生体膜に直接作用する膜吸着説や粒子説も提唱された。また、最近出版された「匂いの帝王」(早川書房?)にあるように、匂い分子がもつ固有の分子振動が神経の共鳴や電気振動を引き起こすという分子振動説もあった。しかし、嗅覚受容体遺伝子の発見によって、立体構造説が実証され、匂いの形やサイズや官能基の性質が受容体によって認識され、それが匂いの質を決定することがわかった。

 さて、BuckとAxelは1991年に嗅覚受容体遺伝子を発見し、哺乳類で約千種類あることが示唆された(図1)。当初は、この遺伝子群がコードするタンパク質が、本当に匂いを認識するという実証はなかった。その実証実験には、筆者らのグループを含めた世界3グループがそれぞれ独立した手法を用いて成功して、1998-99年にかけて発表した。これらの研究によって、BuckとAxelが発見した嗅覚受容体遺伝子が本当に匂い受容体であることがわかったのである。また、彼らは、単一の嗅神経細胞には一種類の受容体が発現し、同じ受容体を発現する神経はある特定の糸球体に収束しているということも発見した。つまり、嗅覚受容体発現神経がつくりだす投射ネットワークと、受容体解析からわかったリガンド認識機構をあわせて考えると、受容体の組み合わせによって匂いの多様性を区別する仕組みが見えてきたのである(文献2)(図1)。その後、ゲノム解析によって、ヒトでも嗅覚受容体遺伝子は約350種類もあり、全遺伝子の1%をもしめていることがわかっている。

 嗅覚受容体遺伝子発見以来、嗅覚における匂い認識機構が分子レベルで明らかになってきたが、これらの一連の研究が我々の生活で何の役に立つのだろう?これが、マスコミからの問い合わせで筆者が困った質問である。脳研究の時代といわれているが、匂いの記憶や学習は、脳研究には最適のシステムである。われわれが何を感じ、何を思うか、そんな感情や情動の変化には、嗅覚が密接に関わっている。そういう意味では、基礎研究に対して多大な貢献をするものであるが、今すぐに、どんな応用面があるのかはわからない。でも、「化学」の読者であれば、抗体産生機構発見以来の、生物がもつ多様性識別を実現する巧妙なシステムの発見であるということで、非常に魅力があることは同感されるだろう。最近、直接何かに役立つものや応用できる発見に対するノーベル賞が多かったが、生物がもつ神秘を解明するという科学の原点にたつという意味では、今回、カロリンスカの審査員達も方向性をもとにもどしたといえよう。

 このように書いてくると、嗅覚研究は医学というより化学の分野ではないかと思われる。確かに、嗅覚は、匂い分子という化学信号からはじまり電気信号に変換されて脳で処理されるという、化学から生理学まで幅広い現象である。そういう意味では、医学生理学賞のうちでも生理学なのだが、今回の発見は、生理学中心に進展してきた嗅覚研究に分子生物学のメスが入ったものであり、その結果、究極の分子認識と化学信号処理といった嗅覚の第一ステップの分子機構が明らかになったので、化学賞に相当してもよいと筆者は感じる。奇しくも、ユビキチンが同年のノーベル化学賞なのだから、逆でもよかったのでは。もっとも、五感のなかでも、視覚と聴覚はノーベル医学生理学の対象になっているので、当然、嗅覚も医学生理学賞、そして、このラインでいくと、いずれ味覚とフェロモンもかなとも思う。そして、五感の集大成である、第六感の解明につながるかもしれない。21世紀の科学は、バランスの崩れた身体をもとにもどす医学とともに、五感のバランスを維持する健康科学の時代ともいわれる。その方向性をもう一度再確認したのが、今回の嗅覚でのノーベル賞ではないかと思う。

参考文献 1) Buck, L. and Axel, R. (1991) Cell 65, 175-187 2) 東原和成 (2003) 化学と生物 41, 150-156

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