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以下は、「へるすあっぷ21」に1年間連載した記事です

「においの科学のウソ・ホント」

第一回:においの正体は?
 においは五感のひとつである嗅覚で感じる感覚です。においは目に見えませんが、波動として伝わる物理信号である光や音と違って、その正体は化学物質です。数多くある化学物質のなかでも、私たち人間も含めて陸棲の生物にとってのにおいは、空気中を飛んでくる揮発性の低分子の物質です。ただ、低分子でも、例えば砂糖のように揮発してこない物質はにおいませんし、飛んでくるもののなかでも例えば二酸化炭素のようににおわない物質もあります。においは化学物質だよ、というとなんか危険な感じをうけますが、実際に空間に存在する匂い物質はとても少量です。例えば、足の裏のにおいはイソ吉草酸という物質ですが、その物質を一滴東京ドームの真ん中に垂らしただけで、ドーム中が足の裏のにおいで充満するというくらい薄めてもにおいます。これはpptというレベルの濃度で、10の12乗薄めたもの(10倍薄めるのを12回やったもの)になります。多くの匂い物質が10の9乗から12乗くらい薄まって空気中に存在します。私たちの鼻は意外と敏感で、食品に添加されている香料も量的にはかなり少ないのです。それでは、匂い物質はどこから来るのでしょうか。多くの匂い物質は、生物から出てくるものです。生物共通の代謝として一次代謝経路というのがありますが、匂い物質は、それぞれの生物特有の二次代謝経路から発生するものです。ですから、人間と犬の匂いは違いますし、植物はぜんぜん違う匂いを発するのです。つまり、においがあるということは、そこに植物や動物や微生物など生きとし生けるものがいるということなのです。もちろん、ものを火にかけたりして、化学反応で生まれる匂い物質もありますが、多くの匂い物質は生物由来なのです。匂い物質は代謝産物なので、その生物の代謝が変わるとにおいも変わります。人間も病気になったりすると身体の代謝が変化するので体臭も変化するのです。ところで、「鉄棒のにおい」はみなさん経験的に知っていると思いますが、鉄自体は揮発しないので匂いません。では、鉄棒のにおいは何由来なのでしょう。実は、鉄イオンは酸化還元力が強いので、手からついた脂質が鉄錆にふくまれる鉄イオンと反応してできる物質が「鉄棒のにおい」なのです。「血のにおい」も、血のなかに含まれている匂い物質というよりか、血に含まれる鉄分が、手についている油を酸化したものなのです。では、このような匂い物質は世の中にどれくらいの種類が存在するのでしょうか。実は誰もわからないのですが、推定で数十万種類と言われています。そして、花の匂いとか、犬の体臭とか、カレーの匂いとか、私たちが普段生活で感じるにおいは、分析してみると数百種類の匂い物質が混ざったものであるということがわかっています。世の中にはとてもたくさんの種類の匂いがあり、それらが混ざって発せられていて、それを敏感に嗅ぎ分けることができるのが、私たちの鼻から脳につながっている嗅覚感覚です。私たちの鼻は、究極の分子識別装置といえるでしょう。

第二回:においはどのようにして感知・識別される?
 匂い分子はどこでどのようにして感知されるのでしょうか。鼻のなかの鼻腔空間の上部(鼻骨の後ろあたり)に、嗅上皮とよばれる匂いを感知する粘膜組織があります。片側で1円玉程度の表面積(数cm2)です。嗅覚がすぐれている犬に比べたら人間は40分の1程度の広さです。嗅上皮には、嗅神経細胞という匂いを感知する神経が、人間で約500万個ほどあります。では、嗅神経細胞は匂い分子をどのようにして認識するのでしょうか。においを感じるメカニズムは、実は1990年代になるまで不明でした。古くは、匂い分子が嗅上皮に吸着して膜を動かすのが信号になるという膜流動説、鼻のなかに分光器みたいなものがあって匂い分子がもつ分子振動が認識されるという振動説、匂い分子の形が認識されるという立体構造説、などいろいろな説がありました。最終的には、1991年にコロンビア大学のリンダ・バックとリチャード・アクセルが匂い物質と結合するタンパク質を作り出す遺伝子をみつけて、立体構造説が正しいことがわかりました。そのタンパク質は、匂い受容体あるいは嗅覚受容体と呼ばれ、この発見によって、彼らは2004年にノーベル医学生理学賞を受賞しています。そして、ゲノム時代が到来し、いろいろな生物の遺伝子の解読が進むと、匂い受容体遺伝子はたくさんあることがわかりました。私たち人間の染色体上には、約400種類の匂い受容体遺伝子が存在します。五感のなかで最初に失ってもいい感覚はどれですか?という質問をすると、多くのひとが嗅覚と答えますが、人間の遺伝子の数は2万ちょっとですので、その数%にあたる遺伝子が失ってもいい嗅覚を動かす遺伝子であるのは、驚くべき割合かと思います。400種類の匂い受容体タンパク質それぞれには、匂い分子がはまる鍵穴のような部分があり、その形は400種類の受容体ですべて異なります。鍵である匂い分子が受容体の鍵穴にはまると、受容体の形が変化して、その結果嗅神経細胞が興奮して電気信号となって脳に伝わります。ひとつひひとつの嗅神経細胞には400種類のどれかひとつがでているので、嗅上皮にある500万個の嗅神経細胞は400個のタイプに色わけすることができます。匂い分子が400種類のどの受容体に結合するか、その組み合わせ(パターン)はそれぞれの匂いで異なります。組み合わせがまったく違うとまったく違う匂いになり、似ていると似ている匂いになります。400種類の受容体があるので、理論的には、2の400乗の組み合わせがあるので、数十万とも言われる匂い物質は簡単に識別できるシステムだということです。五感のなかでも、視覚はRGB(赤、緑、青)と白黒の4種類の受容体で光と色を識別し、味覚は甘み、うまみ、塩味、酸味が1種類づつ、苦味が25種類の約30個の受容体で基本5味を感じています。それに対して嗅覚のセンサーが400種類というのは五感のなかでも圧倒的に数が多く、それが匂いのバラエティーさを生み出す分子基盤になっているのです。

第3回 人間は嗅覚が退化しているか? 鼻がいいひととは?
 鼻のいい動物と悪い動物は何が違うのでしょうか。「鼻がいい」には、におうかにおわないかという感度の良さと、においの違いを嗅ぎ分ける識別能力の高さの二種類あります。前回のコラムで紹介したように、数十万種類あるといわれている匂いは、人間で400種類の嗅覚受容体の組み合わせで識別されています。受容体の数が多いほど、匂いの識別はより精密になります。受容体の数が一番多いのは、アフリカゾウで約2000種類、ネズミやマウスは1100-1200個程度、犬は約800個と、人間に比べて圧倒的に数が多く、その結果、匂いの違いを厳密に区別できます。感度に関してですが、嗅覚受容体がでている嗅神経自体の感度はどの動物も変わらないのですが、犬のように嗅上皮も広く、くんくんと空気を強く鼻のなかにとりこむ動物は、結果的に感度がよくなります。一方で、動物それぞれ受容体レパートリーが違うので、得意な匂いと不得意な匂いがあります。人間は嗅覚が劣っているかというと、そうでもなく、霊長目のなかでは受容体の数は多いほうです。猿は果物の香りを嗅いで選り好みして食べますが、天狗猿のように草食性の猿は嗅覚受容体の数は人間の半分ほどの150-200個しかありません。食べる食べないの判断に嗅覚を使わなくなると受容体の数も減るということ、その結果天狗猿は美味しさを味わっていないのです。一方、匂いが少ない水中に棲む魚は100-150個ほどの受容体しかもちませんが、カエルなど両生類になって陸に進出すると800個ほどと劇的に数が増えます。海に戻った哺乳類であるクジラは50個ほどに激減していて、イルカは受容体がほぼなくなっています。そのかわり聴覚、エコローケーションなど別の感覚を使います。このように、生活環境と食性、そして五感のうちどの感覚を使ってコミュニケーションしているかが、進化の過程で、受容体遺伝子の数に選択圧をあたえてきたのです。では、人間のなかで嗅覚の感度の違いはあるのでしょうか?においが感じないといって病院にくるひとで一番多い原因は、鼻腔内の匂いの通過障害や、鼻炎などの疾患や花粉症などによる影響です。新型コロナウイルスの件でも話題になっています。また、高齢になると嗅覚は落ちていきます。受容体レベルでは、遺伝子多型によって、それぞれの受容体の匂い分子の結合しやすさが個人個人で微妙に違う場合があるので、ある特定の匂いに対して先天的に感度の違いが見られるときがあります。例えば、アスパラガスを食べたあとの尿の匂いの変化(硫黄っぽいにおい)を感じれるひとは、5人にひとりくらいで、残りのひとは感じません。足の裏のにおいも、受容体遺伝子の変異で感じられないひとがたまにいます。遺伝子のほかに、性差と民族差も知られています。男性より女性のほうがどちらかというと感度が高い傾向にあります。イヌイット族は狩猟のために動物臭に対する感度が高いと言われています。このように、鼻腔形状、疾患、遺伝子、性、民族などによる嗅覚差があります。一方で、その匂いを知っているか知らないかで見かけの感度がかわってきます。ソムリエが様々な香りを感じとれるのは、それぞれの香りを言葉やイメージと結びつけて学習して覚えているからです。「においの世界」は、みんな一緒というわけではなく、先天的に異なるとともに、後天的にも変化していく、そして、トレーニングや学習によって「鼻はよくなる」のです。

第4回 においと記憶 —情動をゆさぶるにおいの力—
 中国の玄宗皇帝は溺愛した楊貴妃がなくなったあと、彼女の衣服に残った体臭を嗅いで嘆き悲しんだと言われます。ふと道端でなつかしいにおいを感じて、感情が揺さぶられた経験のあるかたも多いと思います。マルセル・プルーストの大作『失われたときを求めて』では、主人公がマドレーヌの香りを嗅いで、小さい頃にいったおばさんの家のことを思いだすシーンがあります。この話にちなんで、埋もれていた記憶がにおいによって瞬時に蘇る現象を「プルースト効果」とも言います。においが記憶や情動と密接に結びついているのは科学的にはどう説明できるのでしょうか?鼻の嗅覚受容体によって感知された匂いのシグナルは、ちょうど目の後ろあたりにある嗅球というところに伝わります。ここで神経の乗り換えがおき、次に、脳のちょうど中心にある嗅皮質とよばれる領域にシグナルが伝わります。そのあと、情動や感情を司る扁桃体、自律神経や内分泌に影響をあたえる視床下部、記憶を司る海馬、いろいろな感覚を統合してにおいを認知する前頭眼窩野に到達します。前頭眼窩野以外は、大脳辺縁系とよばれる部分で、多くの動物で共通する、古くからある原始的な脳領域です。人間では、発達した大脳新皮質のほうから理性でこれらの原始脳はある程度コントロールされます。視覚、聴覚、触覚など他の感覚は、視床というところを経由するので、大脳辺縁系に入力するまでの神経の数(距離)と時間は嗅覚より長くなります。つまり、嗅覚では、何のにおいかなと認知するより前に、大脳辺縁系が刺激されるのです。この脳の神経回路構造が、他の感覚と比べて、においが過去の記憶と強く結びついたり、感情や情動の変化が瞬時にひきおこされやすくしているのです。また、視床下部が刺激されて、ホルモン系を介して、興奮、鎮静、集中、睡眠、ストレスなど、身体の様々な生理機能に影響がいきます。これが経験的なアロマ効果の科学的背景です。では、このように記憶や情動と強く結び付くのは生まれてからいつ頃からなのでしょうか?実は、胎児の時期からにおいの記憶は始まっています。フランスの研究ですが、妊娠中のお母さんにアニスの香りつきの食事を食べさせた群と食べさせなかった群にわけると、アニスの香りの群のお母さんから生まれたきた赤ちゃんはアニスの香りを嫌がらない、逆にアニスなしのお母さんからの赤ちゃんはアニスの香りを嫌がるという研究があります。嗅覚神経系は、なんと妊娠3ヶ月くらいで完成するので、お腹のなかにいるときからお母さんの食事の香りを感じて記憶しているのです。そして、生まれてからもにおいをどんどん記憶します。特に食生活でのにおいの記憶は好き嫌いにも影響します。嫌いな食材は鼻をつまめば食べられますよね。日本人が大好きな出汁の香りは、出汁文化がない外国人にとっては魚臭くて嫌なにおいです。また、生活空間のにおいにしても、例えば、毎週教会にいかない日本人は、あのカビ臭いにおいは苦手です。また、においの記憶も状況に応じて変化します。例えば、大好きだった牡蠣も、一度あたるとあの香りが嫌になります。彼女がつけていた香水の香りは大好きだったのが、別れたとたん、つらい悲しい香りになります。においの記憶は、無意識のうちに強固に残ると同時に、状況に応じて変化していく、そして情動ともリンクする、極めて動物的でもあり人間的なものでもあるのです。

第5回 消臭消臭、においはなくてもよいのか?
 テレビでは消臭剤のコマーシャルを多く見かけます。高度経済成長期の工場とかの悪臭問題は減っている一方で、職場での体臭によるスメルハラスメント、タバコや飲食のにおい、少し前の柔軟剤など、におい問題は雑多になり、「香害」という言葉もうまれました。そして「香害110番」ができるほど、においに対して日本人はとても敏感で、ここまで消臭剤が売れている国はないと言われています。それではなぜ日本人はここまで消臭したがるのでしょうか。外国では、中世ヨーロッパの時代、衛生志向の高まりから、下水の整備など街からにおいの排除が徹底的にされました。一方で、白人は遺伝的に腋臭体質のひとが多いので、それを消すための香水文化も発達しました。香水をつけていても、外国の料理やワインは香りがしっかりしているので、食空間でも気になりませんが、食材が持つやさしい香りを重要視する日本料理では、香水などはNGです。また日本人は比較的潔癖性なので、においがある=不衛生、という感覚から、においを消したがります。一方で日本独自の文化である香道など、日本らしい香りの愛で方もあります。いずれにしても、このような背景から、日本の生活空間では強いにおいはどちらかというとNGです。それでは、空間からにおいがなくなって無臭になっていいのでしょうか?体臭はないほうがよいのでしょうか?アンケートをとると、五感のなかで一番に最初に失ってもいい感覚は?と聞くと、ほとんどのひとは嗅覚と答えます。ところが、驚くことに、アメリカのグループが、嗅覚を完全に喪失すると5年以内に死亡する率が他のどの疾病より高い、という報告をしています。その原因はわかっていませんが、嗅覚を失うと多くのひとがとても不安感を感じるらしいです。実は私たちは、普段悪臭以外はにおいを意識しませんが、気にしていない無意識の状態でも、においの信号は鼻から脳に入っています。植物や動物が生きているこの空間にはたくさんのにおいが充満していて、私たち人間もたくさんのにおいを発しています。根本の人間臭はみんな同じなので順応していて感じませんが、他の動物からすると人間は雑食なのでかなり臭い動物だと思います。実は同じ生物種のにおいがあると安心感を感じるという実験結果があります。音と電気ショックを連合学習させたマウスは音を聞くと恐怖でビクビクしますが、友達のマウスのにおいを嗅がせると安心します。人間も何気に人間臭によって安心していて、例えば、みなさんも手を鼻の下にもっていくときがありますが、往々にして誰かと話していて緊張しているときに、その緊張を和らげるために自分のにおいを何気に嗅いでいるといわれています。確かに悪臭はストレスですが、実は無意識のうちに嗅覚によって多大な恩恵をうけているのです。ロボット、サイバー空間の時代になりましたが、においがなくなると人間らしさを失うのではないでしょうか。ちなみに、多くの消臭剤は匂い分子を消しません。シュッシュッとして空間にある匂いを吸着させて地面に落とす、衣服についた匂いが飛んでこないように衣服に留める、というのが大方の原理です。その場しのぎでしかありません。もちろん、においを消したい仕事場もありますが、今後は、消臭消臭だけではなくて、においをポジティブに有効につかうビジネスも企業に考えてもらいたいものです。

第6回 加齢臭はほんとうにくさい?
 ちょっと前に、「おじさん臭」という言葉が流行しました。そのもととなる匂いの正体は、2−ノネナールという物質で、汗に含まれる脂質が酸化してできる物質です。もともと、高齢女性から見つかったものですが、女性ホルモンで発生が抑えられるので、どちらかというと男性のほうが多く発しています。ただ、男女関係なく高齢者からでているということで、最近は「加齢臭」と言われることが多いようです。では、2−ノネナールは悪臭かというと、実は、前情報なしにブラインドで嗅いでもらうと、8割のひとは嫌でも好きでもないと答えます。私には、絵の具ときゅうりがまざったようなにおいに感じますが、そこまで毛嫌いするようなにおいではありません。古くなったナッツからも同様なにおいを感じます。おじさんがつけているポマードのなかにはひまし油が入っていて、同じような酸化臭を発するので、それを加齢臭と誤解しているひとも多いようです。身体から発する匂い物質は代謝産物なので、赤ちゃん、幼児、思春期、若者、ミドルエイジ、高齢者と、年齢を重ねていくと、体内の代謝も変化していくので、当然体臭も変化していきます。自分と同じ年代のひとからは同じ匂いがでているので気がつきませんが、違う年代のひとの体臭の違いには気がつきます。若者は、おじさんやおばさんのにおいを感じますが、逆におじさんやおばさんは若者のにおいを感じます。赤ちゃんは甘い香ばしい匂いがしますし、思春期はホルモン変化によって特徴的なにおいがします。つまり、年齢とともに体臭は変化して当然なのです。では、なぜ加齢臭は臭いとされるのでしょうか?それは、ある匂いをいいにおいと感じるか臭いと感じるかは、情報や思い込みによって影響されるからです。例えば、納豆やチーズが好きなひとは、あの発酵臭が好きですが、その特徴的な匂いのひとつであるイソ吉草酸は、汗にも含まれている足裏のにおいでもあるので、例えば「おじさんの靴下のにおい」という情報を与えられると、今度は嫌悪感を感じます。また、赤ちゃんに、バラとうんこのにおいのどちらかを選ばせてみると、どちらも同じくらいの好みをしめしますが、小学生くらいになると、うんこのにおいは決して選びません。「うんこは臭い」という情報が与えられてしまっているからです。同じにおいでも、状況や文脈によって心地よく感じたり、不快に感じたりします。同じにおいでも悪臭に感じる文脈(ラベル)付けをすると、そうでないときに比べてストレスホルモンが上昇します。においによるストレスのレベルは、そのにおいを悪臭と感じるかどうかで変わるのです。私はナッツから「加齢臭」がにおうと臭いと思いますが、体臭から感じても臭いとは思いません。なぜなら、ナッツが酸化したらおいしくないけど、体臭から感じるのは当たり前だから。思春期もミドルエイジも高齢期のにおいも、みんな成長の証しと思って、誇るべきにおいと思うと気持ちも楽になると思います。消す必要はありません。生物である証拠。香水で有名なココ・シャネルはこんな言葉を残しています。「もっとも神秘的で、もっとも人間的なもの、それはにおい、、、」  

第7回 病気とにおい 
 私たちの体臭には、人間共通の体臭に加えて、遺伝子、年齢、食べ物などの違いによる個人差があります。さらに、体臭は代謝産物ですから、同じ個人でも、体調によっても変化します。代謝疾患はもちろん、病気になると、身体は細菌やウイルスに対抗しようと代謝を変化させるので、体臭は必然的に変化します。有名な例が糖尿病で、尿中にケトン体という物質群が増えるので甘いにおいがします。ガンにもにおいがあり、訓練された犬や線虫は嗅ぎ分けることができることが知られています。古くは「嗅診」とも言われ、名医は患者さんから発する普段とは違うにおいに気づいて病気を見つけることができました。体臭の変化は、体調のバロメーターでもあるのです。 そんな体調の指標となる体臭ですが、中世ヨーロッパでペストの大流行があった時は、大きな誤解があったと言われています。どんな誤解かと言いますと、ペスト患者は、リンゴのような体臭がすると言われていますが、まだ細菌やウイルスの存在が知られていなかった時代ですので、そのペスト患者のにおいを嗅ぐと病気が移ると信じられていたのです。アラン・コルバンの『においの歴史』で詳しく述べられていますが、「におい=病気の感染源」という誤解の結果、衛生志向に伴って、街から悪臭の徹底的な排除がおこなわれたのです。ある意味で、清潔で綺麗な街作りのためには功を奏したのですが、嗅覚に劣等感覚のレッテルが貼られてしまったのです。日本でも同様の迷信があります。『古事記』によると、須佐之男命は、イザナギが黄泉の国で朽ち果てたイザナミを見た穢れを祓うために、鼻を洗って生まれた神様なのです。つまり、死臭を嗅ぐと穢れる(汚れる)、という考え方をしていたのです。 においを嗅いで病気が移ることはないのですが、確かに病気のにおいはあまり良いものではありません。インフルエンザに感染した家族が寝ている部屋がいつもと違うにおいがするというのを経験したことがある人もいるかと思います。スウェーデンの研究ですが、リポ多糖という細菌由来の毒素をヒトに投与して人工的に熱を出させて風邪をひいた状態にさせて、その人の体臭を別の健康な人にブラインド(情報なし)で嗅がせると、そのにおいを避けるという研究があります。動物的な本能として、病気の体臭を発している個体に近づかないのです。普段病院に行かないひとがたまにいくとなんとなく疲れてしまうのは、病気のにおいに晒されるからかもしれません。それでは健康的なにおいってあるのでしょうか。おそらくその指標はなく、普段無意識下にある体臭がデフォルトの健康的なにおいなのだと思います。いずれにしても、自分のおしっこのにおいがいつもと違うなと感じたら、身体の変調のシグナルかもしれません。多くの場合は、気のせいだったり、食事に由来するケースが多いのですが、病院や健康診断が嫌いな人は、自分のにおいの変化に少しアンテナを立てとくと良いと思います。

第8回 感情ににおいはあるか?
 数年前にNHKで『スニッファー』というドラマが放映されました。阿部寛さんが扮する主人公の華岡は、人間離れの飛び抜けた嗅覚を持っており、犯罪現場に残された犯人の体臭で、犯人像を明らかにしてしまう。例えば、犯人は40代の独身男で、糖尿病を患い、犯行前にアスバラガスを食べた、などと言い当ててしまう。オリジナルはウクライナのドラマですが、日本版では、匂い・嗅覚に関しては私が監修させていただき、原作にはない匂いに関する逸話がいくつか織り込まれています。例えば、「悲しみの匂い」という話がでてきますが、果たして感情ににおいはあるのでしょうか。 前回のコラムで病気の匂いの話をしましたが、体臭は代謝産物なので、病気だけでなく、緊張、ストレス、恐怖など、精神・心理状態が変化しても体臭は微妙に変化します。例えば、スカイダイビング中に脇臭を捕集して、別の人にその匂いを嗅がせると、嗅いだ人の不安度や緊張状態が高まることが知られています。つまり、ストレスが高くなった人からは普段とは違う匂いが発せられているのです。ただ、スカイダイビングなど極度の恐怖状態に置かれた人の体臭変化は明らかですが、普段のストレスではそこまで気付くような匂いの変化はありません。もっとも、一緒にいると無意識のうちに相手に心情が匂いで伝わっている可能性はあります。  人との関係やコミュニケーションを円滑にしたいと思っている人は多いと思います。身だしなみに気をつかって、会話力ももっとあげられたらなと思いますよね。コロナ禍で、オンラインによる会議や打ち合わせがほとんどになりましたが、リモートであれば、コミュニケーションに使われるのは、五感のうち視聴覚の二つですので、見た目と言葉で十分かもしれません。でも、モニターを介して話していると、どこかで心の繋がりが希薄になっている、相手の本当の気持ちが捉えられない、と感じている人もいるかと思います。それを一生懸命捉えようとするので、リモート会議が続くと疲れてしまいます。人間臭(匂い)と風の流れ(触覚)が作る「雰囲気」という場がないからです。 さて、話は変わりますが、「恋するにおい」なんていうものはあるのでしょうか。と、聞いた私も、実はわかりません。でも、恋する人の前では目がうるうるする(涙液が分泌される)ということが言われているので、身体のなかで何らかの生理変化が起きているので、体臭も微妙に変わっているかもしれません。もっとも、『スニッファー』の華岡くらいの嗅覚能力がないと感じれないと思いますが、もしかしたら無意識下で相手に好感を持っていることが伝わっているかもしれません。それは、言葉よりもっと心に響くシグナルかもしれません。人間社会において匂いのコミュニケーションが存在するか、その状況証拠はあるものの、まだまだ謎だらけです。

第9回 フェロモンはにおう?
 「異性に好かれるフェロモンが欲しい」「あの女優はフェロモンを出している」と言った声がちらほら聞こえますが、そもそもフェロモンとはなんでしょう。もともとは、1959年、メスのカイコ蛾が発してオスを引きつける物質が見つかった時につけられた言葉で、ギリシャ語で「運ばれるホルモン」という意味です。定義は、「ある個体から体外に発せられて、同種の別の個体に、ある特定の行動や生理変化をもたらす物質」です。その中でも、特に異性を引き付けるフェロモンを「性フェロモン」と呼びます。フェロモンは物質なので、見た目(視覚)でフェロモンを出していると言うのは間違いですね。フェロモンには、性フェロモン以外に、警戒フェロモン、道標フェロモン、集合フェロモンなど、いろいろな作用を引き起こすものがあります。  さて、マウスなど齧歯類ではフェロモン現象がたくさんありますが、一つ重要なのは、フェロモンはにおう物質でなくてもよいのです。例えば、マウスではオスの涙からフェロモンが出てメスはそれを感知するとそのオスを受け入れますが、そのフェロモンは匂いではなくてタンパク質で直接接触によって伝搬されます。他にも、オス豚の唾液の中のフェロモンはメスに交尾体勢を取らせますし、ウサギのお母さんの母乳フェロモンは赤ちゃんウサギの口を開けさせるなど、多くの動物では、フェロモンは異性を認識して交尾して子孫を生み育てて種を繁栄させるのに必須な物質です。霊長類ではフェロモンは見つかっていませんでしたが、最近、ワオキツネ猿のオスが、腕の分泌腺からでたフェロモンを尻尾に擦り付けて振って飛ばしてメスを引き付けることがわかりました。  では、ヒトにはフェロモンはあるのでしょうか。残念ながらまだ見つかっていません。巷にフェロモン入り香水などが売られていますが、科学的根拠はありません。では、フェロモンはないかというとフェロモン現象自体は報告されています。有名なのは、寄宿舎効果で、女性寮で性周期が同調するというものです。また、赤ちゃんの匂いはお母さんに愛着心を誘発します。排卵期の女性の匂いは男性ホルモンを上昇させます。これらは一応フェロモン現象と言われていますが、物質が見つかっていないので、まだわかりません。  さて、「異性を引き付けるフェロモン」が欲しいですか?でも、よく考えてみてください。もしそういう物質を身に付けたら、全ての異性が寄ってきますよ。実際は好きな人だけに寄ってきて欲しいのですよね。ヒトは、霊長類への進化の過程で視覚と大脳新皮質を発達させて、言語というものを獲得したことによって、動物的な本能的行動が不必要になりました。その結果、画一的な行動を引き起こす古典的なフェロモンはつかう必要が無くなったと考えられます。でも、性周期関連の現象や赤ちゃんの愛着フェロモンみたいな現象はありますので、ヒトは他の動物とは違って、行動よりも情動や生理に働くフェロモンコミュニケーションを残しているのかもしれません。  

第10回 アロマ効果は本当か?
 アロマテラピーは効果があるのかないのかわからない、なんか怪しいんじゃないの?という声をよく聞きます。でも、結論から言いますと、効果はあります。なぜ怪しいと思われているかというと、まず、科学的にどういうメカニズムで効いているのか根拠が乏しい、という理由があります。メカニズム的には、嗅覚刺激によるホルモン系や自律神経への影響、血中などに溶け込むことによる効果の二つがありますが、実際にどちらを介しているかはなかなか結論できません。ちょっと前に、グレープフルーツの香りで痩せる、というのが話題になりましたが、視床下部を介してホルモン系が刺激され、その結果アドレナリンが分泌されて脂肪細胞が燃焼するというメカニズムが提唱されています。アロママッサージなどは皮膚から香り物質が浸透することによる効果があるといわれていますが、具体的に身体のどこに作用するのかはよくわかっていません。 二番目の理由としては、本当にアロマの効果なのか見極めることが難しい、ということがあります。リフレッシュした気持ちになるなどすぐに感じる効果は分かりやすいものの、継続して使用して身体が健康になる時は本当にアロマの効果かどうかの判断は難しいです。最近は、認知症の患者さんは、記憶だけでなく嗅覚に障害がでるということで、香りで発症を遅らせることができないか、記憶を戻すことができないか、などの臨床試験が試みられていますが、香りの効果と断言するのはなかなか難しいと思われます。ただ、間違いなく、五感をバランスよく使うことは、人間の健康を維持する上で重要なことです。普段の食生活でも、香りを感じて美味しく食べるなど、嗅覚を意識することは、脳にも健康にも良い影響を与えます。 三つ目の理由としては、薬のように万人に効くわけでなく個人差がある、といった理由があります。香りの好き嫌いは個人差がありますが、効果があるといわれている香りでも、嫌いなにおいなら効果はでません。また、同じ香りを嗅いでも、不快な情報を付与されると、ストレスになります。つまり、アロマの効果は、その時の心理状態や、その香りに対する主観的な評価によって変わってくるのです。だから、アロマ効果を信じない人には効果は出ないことも大いにあるのです。となると、このことを逆手にとれば、アロマ効果が出やすい環境や情報を与えてあげればよいということになりますね。  さて、新型コロナ感染症の流行は、私たちの生活環に大きな影響を与えています。在宅勤務が多くなり、気持ちの切り替えをうまくしなくてはいけない時があると思います。実は、そんな時、香りを試して見てはいかがでしょうか。どんな香りでもいいと思います。気持ちをしゃきっとしたいとき、仕事に集中したいとき、アイデアを出したいとき、そして仕事が終わってホッとしたいとき、寝る前に身体を癒したいとき、などなど。身近にある香りでも良いですし、食べ物でも良いです。ちょっと香りを意識してみると気持ちの切り替えができると思います。  

第11回 おいしいのは香り
 おいしい料理を食すると、幸せな気持ちになります。楽しく食べることは、健康とQOLに重要です。ところで、おいしいのは味覚で感じているのでしょうか?もちろん、甘味、苦味、酸味、塩味、旨味といった基本五味がないとおいしくないですが、実際に料理のバラエティーさとおいしさを創っている主な因子は、香りとテクスチャー(触感)です。風邪をひいたりして鼻が効かなくなると、どんな料理も無味簡素になります。香りがないと味の輪郭がぼやけてしまいます。嗅覚と味覚は密接に相互作用しながら、料理のおいしさが創り出されます。 人類がここまで食を楽しめるようになった理由の一つに、人間の解剖学的特徴があります。私たちは、鼻先から香りを感じれるだけでなく、口の中で食べ物を咀嚼しているときに喉越しから鼻腔に抜けてくる香りを感じることができます。これをレトロネーザルオルファクション(あと香、口中香)といいますが、ネズミや犬と違い、食道と気道が喉で交差しているからこそできる人間特有の「技」です。チンパンジーなど他の霊長類でも交差していますが、声帯の位置の違いなどの理由で、人と同じようには感じれません。進化の過程で解剖学的にレトロネーザルからの香りを感じれるようになって、さらに火を料理に使うようになって食べ物の香りの種類が広がったことで、私たち人間は食をより楽しめるようになり食文化が発展したと考えられます。 最近「フードペアリング」という言葉をよく聞くと思います。一緒に食べたり飲んだりするとおいしさが増す組み合わせを言います。ちょっとかっこいい言い方としては、結婚という意味に絡めて「マリアージュ」とも言います。多くのペアリングでは、香りの相性がポイントになります。香りがマリーアジュするときは3パターンあります。一つ目は、同系統の香りを合わせて調和させる方法(調和)。いい香りが引き立ったり、嫌な匂いが抑えられたりして、バランスが取れます。肉に赤ワインというのが典型です。2つ目は、香りを合わせてお互いを補強する方法(足し算)。日本料理のように繊細な食材の香りを大事にする食文化ではよく見られます。三つ目は、絶対にマリアージュするはずのないような香りを合わせて新しい香りが作られるケース(驚きのペアリング)。これにはなかなか出会えないですが、私のような食いしん坊はこの出会いを常に心待ちにしています。 視聴覚が優位な人間社会では、長い間、嗅覚は劣等感覚、匂いは排除の対象でしたが、近年、ブリア・サバランの「美味礼讃」に見られるように、おいしい食の快楽における味と香りの重要性が認識されるようになりました。本稿を読まれたみなさん、今日の昼食あるいは夕食で、少し香りを意識してみてはいかがでしょう。鼻をつまんで飲んで食べてみて、パッと手を離すと、レトロネーザルから上がってくる芳香を感じられます。おいしいのは香りだということがよくわかります。健康寿命を延ばすには食を楽しめることがとても大切です。そしてその楽しみの背景には必ず香りがあるのです。  

第12回 香りビジネスにチャンスはあるか?
 今回が連載の最後になりました。悪臭に出会うと鼻なんてないほうがいいと思いますが、一方で、私たちの気持ちと行動は無意識下で匂いに大きく影響を受けているということを、連載を通して理解していただけたかと思います。私たちはコロナ禍でサイバー空間で活動をするようになり、五感をバランスよく使ってコミュニケーションをすることができなくなりつつあります。そんな中、消臭消臭ではなくて、香りのポジティブな活用にビジネスチャンスが生まれつつあります。 香りのサービス市場にはどんなものがあるのでしょうか。大きく分けると、食空間、生活環境、医療現場といった空間に分類されると思います。食に関しては、美味しく食べるのに香りは欠かせません。肉などをターゲットとした代替資源を使った加工食品にはフレーバーが必須です。また、適正な量の食事で満足する香りや、孤食に感じさせない香りなどは、肥満を抑えたり健康的に楽しく食するために必要とされるでしょう。 生活空間では、快適、安心、絆などに、匂いや香りが貢献できます。例えば、リラックス、集中、快眠、気持ちの切り替え、そして意欲や気分を高めるのに香りを使うことができます。利用場所は、自分の家のみならず、職場、ホテル、娯楽施設など様々です。また、高感度の匂いセンサーが開発されれば、セキュリティー含めて安心な空間を提供できるでしょう。絆としては、母子間の愛着の強化、婚活などで相性マッチングなど、体臭をうまく使えば人と人との適切な繋がりをサポートしてくれます。 医療現場では、診断と健康に役立ちます。体臭は体調のバロメータですので、その微妙な変化を捉えることができれば、健康状態モニタリング、疾患の事前予測が可能となります。体調と健康に配慮したIoT香りサービスなどもできるでしょう。また、この10年くらいですが、香りを使った嗅覚刺激療法というものが、アルツハイマー病や認知症などの改善に試みられています。病院や介護施設で快適に過ごせるための匂い空間作りにもニーズがあります。 このように、いろいろなビジネスポテンシャルが考えられますが、実際はまだまだ香りの有効利用の社会実装には遠いものが多いです。その理由としては、匂いを自由に設計して適切に制御するのが難しいこと、匂いの感じ方に個人差があること、香りの効果のエビデンスが弱いこと、が挙げられます。また、化学物質過敏症の方々にも配慮する必要があります。これらの課題を解決するために、私たちの研究グループを含めて、全世界で精力的に研究が進められています。 嗅覚感覚は、様々な生活の局面で、年齢層に関わらず、無意識下で様々な効果を発揮してくれます。息を止めることはできないので、匂いや香りは消すことはできません。うまく利用して付き合っていけば、私たちの健康に大きく貢献してくれます。1年間連載にお付き合いいただきありがとうございました。
 

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