History

「東京大学農芸化学科 各講座の研究の歩みと将来の展望」
(1994年3月発行)p.9~12より引用

有機化学講座

  本講座は制度上では大正11年(1922)に開設された農芸化学第四講座にその源を発している。昭和19年(1944)から昭和21年(1946)までは後藤格次教授、昭和21年から24年までは住木諭介教授、昭和24年から昭和28年までは松山芳彦教授が担当している。これら諸教授の研究成果については生物化学並びに農産物利用学(生物有機化学)研究室の項に詳述されているので参照されたい。 
  昭和28年(1953)、農学の教育・研究の発展に従来不十分であった有機合成化学の手法が必要不可欠であるとの認識から、農芸化学科に化学第四講座を継承する有機化学講座が設けられ、生物化学講座教授佐橋佳一、農産物利用学講座教授住木諭介の兼任分担で発足した。同年、松井正直が助教授として着任し、実質的な有機化学研究室の歴史が始まったといえる。松井は昭和31年(1956)には教授に昇任し、講座を担当した。
  松井は、有用な生理活性を有する天然有機化合物の合成研究を以後20年余にわたり展開し、農芸化学分野におけるパイオニアとして有機合成化学研究・教育の発展に大きな貢献を果たした。すなわち天然殺虫剤として広く用いられていた除虫菊有効成分ピレトリン類とその類縁体の合成研究を在任中一貫して行い、テトラメチルシクロプロパンカルボン酸がピレトリンの酸部として有用で非常に高活性なピレスロイド誘導体が得られるとの、北原武とともに見出した画期的な知見をはじめ、多くの新知見を得た。これらの研究成果を基礎として、従来家庭用殺虫剤であったピレスロイド類が今日重要な低毒性農薬として世界的に使用されるに至り、合成ピレスロイド工業の発展に大きく貢献した。(1950年:松井正直農芸化学賞、1981年:北原武農芸化学奨励賞)他に殺虫剤関係では、山下恭平と殺虫共力剤として有用なフェノールラクトン類の合成研究を行った。昭和35年(1960)に山下が助教授となった。
  さらに特筆すべきは、複雑な含酸素複素環を有する天然殺虫剤ロテノンの全合成を宮野真光とともに昭和35年に世界で初めて完成させたことである。これによりロテノイド類の一般的合成法が確立され、幾多の天然ロテノイドの合成が次々となされるようになった。(1962年:宮野真光農芸化学賞)
  また昭和30年(1955)頃から、北村誠一らと、動物栄養上必須なビタミン類の合成研究に着手し、ビタミンAの優れた新規合成法を開発して工業化に成功するとともに、ビタミンB6、C、E、Kなどの新規合成法を開発した。これらは我が国のビタミン合成工業興隆の端緒となった。(1958年:松井正直ビタミン学会賞、1965年:松井正直日本化学会化学技術賞)
  さらに複雑な天然物の合成としては、森謙治と行ったシベレリン類及び関連ジテルペノイドの合成研究がある。ジベレリンは本農芸化学科で薮田・住木両教授により稲馬鹿苗病菌から稲幼苗の生育促進物質として世界で初めて粗結晶が取り出され、後に高等植物の生育を制御している植物ホルモンであることが明らかになった重要なジテルペンである。その構造は非常に複雑であるために合成が困難とされていたが、昭和34年(1959)より9年の歳月を経て世界初の合成に成功した。本合成の完成は当時の科学技術の水準から鑑みて画期的な出来事で、農芸化学における有機合成の実力を世界に知らしめた研究成果である。(1965年:森謙治農芸化学賞)昭和42年(1967)に山下が東北大学教授に昇任し、翌43年(1968)森が助教授になった。
  なお当時発展の気運にあった昆虫生理活性物質の化学にも、森とともに取組み、昆虫幼若ホルモンとその類縁体多数を昭和45年前後に合成し、天然品よりも強力な幼若ホルモン活性を有する類縁体を見出すとともにその大量合成法の開発にも成功して、養蚕業への利用による生糸の増収を目指した実用的研究に貢献した。松井在任中のその他の業績としては各種テンペル系香料の合成やバリオチンなどの抗生物質の合成研究がある。
  昭和53年(1978)、森が教授に昇任し、翌54年(1979)、北原が助教授となった。森は昆虫化学に立体化学の概念を導入することに興味を抱き、高純度な光学活性昆虫フェロモンを天然型のみならず非天然型鏡像体も含めて多数合成した。これにより従来天然からは微量にしか得られなかったために進展が遅れていた昆虫フェロモンの生物学や生理学分野の研究に対し、物質供給を可能にすることにより大きなインパクトをあたえた。合成品の生物活性試験の結果から構造−活性相関を検索したところ、とくに光学異性と生物活性との関係が昆虫フェロモンにおいては非常に多様・複雑であり、従来の一般的な推測では計り知れないものであることを世界で初めて見出し、この分野の先駆者として国際的に評価され、指導的役割を果たしている。これらの研究は産業分野での実用化の可能性も含めてさらに発展しつつある。
  また植物生長促進活性を有する植物ホルモン様ステロイドであるブラシノライドとその類縁体の合成を榊原・岡田らとともに行い、効率の良い合成法の開発に成功するとともに構造活性−相関研究を通じて有用な類縁体を見出して大量合成にも成功し、植物生理学研究に貢献した。(1984年:榊原和征農芸化学奨励賞)(以上は東京大学百年史に準拠)
  さらに酵素や微生物の持つ不斉な環境での加水分解、酸化、還元等の機能に着目し、有機合成への応用を検討した。その結果、各種アミノアシラーゼ、エステラーゼ、酵母、枯草菌を用い、適当な合成基質を与えることによって、効率良く光学活性な中間体が得られることを見出した。これより昆虫フェロモンをはじめ重要な生物活性を有する多数の光学活性天然物を光学純度良く合成することに成功しており、さらに大きく発展しつつある。
  以上の研究成果の総合的評価として、松井は昭和53年(1978)日本農芸化学会の最高賞である鈴木賞を、昭和54年(1979)紫綬褒章を、更に平成3年(1990)には有機合成化学協会の最高賞である特別賞を受賞した。また松井・森両名が昭和56年(1981)日本学士院賞を受賞している。さらに森は平成4年(1992)農学分野の最高賞である日本農学賞を受賞した。
  さらに松井は日本農芸化学会会長(1979〜1981)、日本農学会会長(1984〜1990)を歴任し、昭和62年(1987)からは日本学士院会員として日本の学術振興のために指導的役割を果たしている。
  森は現在有機合成化学協会会長(1993〜1995)であるとともに、昆虫フェロモン研究等を通じて、国際協力、共同研究を精力的にに進めており、この分野の代表的な学会である国際化学生態学会会長(1992〜1993)をつとめた。
  現在本講座では、上述したような生化学的手法を含めて効率の良い光学活性原料の調製法を種々検討、開発し、これらを起点とする有用な生物活性物質の合成により、農学分野のみならず、医学・薬学・工学等幅広い自然科学の分野に貢献し得る有機合成化学の発展をめざしている。


生命科学分野における有機合成化学の意義、役割と今後の研究課題
  農芸化学は広く生物に関わる様々な科学分野にまたがっているが、その中で天然物化学、有機合成化学の果たす役割、意義は何か。生命現象の科学的解析、理解、解明そしてそれらの応用への道を展開する基盤は、主として化学であり、中でも生物物質を取り扱うことの多い有機化学の知識、素養が必須である。低分子から高分子に至る多様な物質の持つ物理的、化学的性質を調べ、構造を決定し、機能を解析し、構造活性相関や物質代謝の過程を検索して究極的には物質生産への道を開拓するという目的の達成のためには有機化学、とくに合成化学の果たしてきた役割は多大であり、今後もますます重要となろう。それ故に生命科学に携わる研究の場である農芸化学においては有機化学を中心とする基礎化学の教育と徹底的訓練がなされるべきで、それを怠れば将来に禍根を残すことになるであろう。制度的にも大きな変革が農学の各分野で起こっている現状を踏まえ、農芸化学においては改めてこれを確認しつつカリキュラム編成や研究体制の充実を計かるべきである。
  有機合成の意義の第一は構造決定ないしは確定である。生命現象を制御したりあるいはそれに関わる重要な物質はしばしば微量で得られることが多く、精密合成が決定的手段となり、これまで大きな成果を挙げている。生命科学分野では対象は広がる一方であり、機能解析の始点である構造決定において精密有機合成という鋭利な刀の働く場は増大するであろう。
  第二点は物質の供給を可能にする点である。第一点とも関連するが、このような生体関連物質の機能や活性を詳細に検討するために、生物学、生化学、生理学分野などでの研究はもちろん物性や工学的研究に至る広範な分野とも関わって、物質そのもの及び類縁体をも供給し得る手段としてその需要は一層拡大の一途をたどると予想し得る。
  第三点は究極の目標としては、直接的な物質生産のための最も有力な手段のひとつである有機合成による新規な有用生物活性物質の創製であろう。このためには、第一、第二の点を踏まえて、生命科学を中心とする多くの分野との連携が不可欠である。有機合成と精密な機能解析、コンピューター、X線結晶解析等の手段の併用によって合理的な物質の設計を経て創造の道が開かれるであろう。
  以上述べたように、生命科学分野における有機合成化学の対象は微生物、哺乳動物にいたるあらゆる生物における生命現象に関わる重要な物質群であり、フェロモンのような生物間交信物質、植物ホルモンやステロイドホルモン類のような内生的な調節因子、抗生物質のような生物間拮抗物質などの低分子からペプチドホルモン、核酸関連誘導体、糖脂質、糖蛋白等高分子生理活性物質にまで及んでいる。複雑な生命の仕組を解き明かしていく道筋の上で、一つ一つの物質にこだわりそこを原点として現象に挑み解析する手段としての有機化学、合成化学を常に最新のレベルに磨き上げておくことが必要であり、これによって、生命科学分野の新展開がもたらされると信じている。

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