History

「東京大学百年史 部局史二抜粋」(昭和62年3月発行)p.268~269より引用

三 有機化学講座

 昭和二十八年(一九五三)、農学の教育・研究に有機合成化学の手法が必要不可欠であるとの認識から、農芸化学科に有機化学講座が設けられ、生物化学講座教授佐橋佳一、農産物利用学講座教授住木諭介の兼任分担で発足した。同年、松井正直が助教授として着任し、昭和三十一年(一九五六)には教授に昇任し、講座を担当した。
 松井は、有用な生理活性を有する天然有機化合物の合成研究を以後二十年有余年にわたり展開した。すなわち天然殺虫剤として広く用いられていた除虫菊有効成分ピレトリン類とその類縁体の合成研究を在任中一貫して行い、テトラメチルシクロプロパンカルボン酸がピレトリンの酸部として有用であるとの、北原武とともに見出した知見をはじめ、多くの新知見を得て、今日の合成ピレスロイド工業の基礎を築いた。他に殺虫剤関係では、山下恭平と殺虫共力剤として有用なフェノールラクトン類の合成研究を行った。昭和三十五年(一九六〇)に山下が助教授となった。また更に特筆すべきは、複雑な含酸素複素環構造を有する天然殺虫剤ロテノンの全合成を宮野真光とともに昭和三十五年に完成させたことであって、これよりロテノイドの一般合成法が確立され、幾多の天然ロテノイドの合成がなされることとなった。
 また昭和三十年(一九五五)頃から、北村誠一らと、動物栄養上不可欠なビタミン類の合成研究に着手し、ビタミンAの優れた新規合成法を開発して工業化に成功するとともに、ビタミンB6、C、E、Kなどの新合成法を開発した。これらは我が国のビタミン合成工業興隆の端緒となった。
 更に複雑な天然物の合成としては、森謙治と行ったジベレリン類及び関連ジテルペノイドの合成研究がある。ジベレリン類は高等植物の生長ホルモンであり、構造が複雑で合成困難とされていたが、昭和三十四年(一九五九)より九年の歳月をへて世界初の合成に成功した。昭和四十二年(一九六七)に山下が東北大学教授に昇任し、翌四十三年(一九六八)森が助教授となった。
 なお当時発展の気運にあった昆虫生理活性物質の化学にも、森とともに取り組み、昆虫幼若ホルモンとその類縁体多数を昭和四十五年前後に合成し、養蚕業への利用による絹の増収研究に貢献した。松井在任中のその他の業績としては各種テルペン系香料の合成とバリオチンなど抗生物質の合成研究がある。
 昭和五十三年(一九七八)、森が教授に昇任し、翌五十四年北原が助教授となった。森は昆虫化学に立体化学の概念を導入することに興味を抱き、光学活性な昆虫フェロモンを多数合成し、光学異性と生物活性との関係についての研究を先導した。また植物生長促進作用を有するステロイドであるブラシノライド類の合成も行った。
 現在同講座では、従来人工的に得難いとされた光学活性体を合成的に得る方法を種々検討し、微生物や酵素の有機合成への利用にも積極的に取り組み、農学分野にふさわしい有機合成化学の発展をめざしている。

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