資料分析 「ベトナム賠償および借款協定関係」外交文書――南ベトナム戦後賠償交渉再考

田中健郎
[2008年5月15日]

はじめに

2007年8月30日、日本国外務省が「南ベトナム戦後賠償」関係の外交文書を公開した。既に、ビルマ(ミャンマー)、フィリピン、インドネシアに対する賠償関係の外交文書は公開されており、この度南ベトナム賠償関係の外交文書が公開されることによって、日本の戦後賠償関係の外交文書が一通り公開されたことになる。(1)

戦後史における南ベトナム戦後賠償の位置づけは難しい。なぜならば、第一に他の戦後賠償と比べて南ベトナムへの賠償額が小さく、そのために外交問題としての重要性も相対的に低くなったからである。また、第二に南ベトナム(ベトナム共和国:1955年10月~1975年4月)という国家自体が既に消滅してしまっているために同国との外交問題を今更顧みる機会がほとんどないという背景があるからだ。

よって南ベトナム賠償問題は、従来十分に検討されないまま、主に経済界の行動から説明されてきた。すなわち、建設コンサルタント会社である日本工営株式会社の久保田豊社長が、同国に対して水力発電所の建設を提案し、同案を賠償プロジェクトとして日本政府にもちかけたという説である。この見方は今日においても有力であり、例えば外交文書が公開された日に東京新聞は、「賠償で国が買える」という久保田の言葉(の一部)を見出しとして取り上げ(2) 、南ベトナム賠償の根拠を同氏の利益獲得のための行動に帰するという見解をとった。

しかし、この度公開された外交文書を紐解くことによって、むしろ南ベトナム政権の賠償請求におけるバーゲニングパワーが、久保田および日本政府の意向を動かしたという事実が明らかになった。以下では、同政権のバーゲニングパワーを軸に南ベトナム賠償が決定されていった軌跡を追い、その分析を通じて、従来の久保田主導の南ベトナム賠償説の修正を試みる。

南ベトナム賠償問題の発端

まず南ベトナム賠償問題は1951年9月のサンフランシスコ講和会議に端を発する。同会議でベトナム国(1949年6月~1955年10月。サイゴンに首都を置き、後にベトナム共和国に継承された)が対日講和条約に調印したことによって賠償請求権を獲得した。同条約に基づき、日本政府は同国との間に沈船引揚中間賠償をめぐる交渉を行うが(1953年6月~9月)、結局同中間賠償は実施されなかった。

両国間の賠償交渉が再開されるのは1955年7月頃である。翌1956年1月より南ベトナム政権の賠償請求は強まり、2億5000万ドルの賠償額を要求するようになった。これに対して日本政府は、まず1956年8月に小長谷綽(こながやゆたか)駐サイゴン日本大使が総額2500万ドルを提案、さらに翌1957年2月には政府内で総額5000万ドルの方針が作成されるに至った。

南ベトナム政権とダニム水力発電所計画

サイゴンから北東に約250キロメートルの中部高原地方の山地に現在も稼働しているダニム水力発電所がある。この土地は植民地時代からフランスが水力発電所建設の適地として目をつけており、ベトナム国の治世になった後もフランスによる建設計画の検討が継続されていた。そのため、1955年2月に戦後初めて久保田がベトナムを訪れた際には時すでに遅く、「ダニムの調査はもはやその必要がない」と同国公共事業大臣より言われていた(3)。つまり、ダニム水力発電所計画は久保田との関わりが生じる以前から同政権の念頭にあったのである。

しかし、上記大臣の言葉に拘わらず、久保田は発電所建設の基礎計画書を提出し、南ベトナム政権の判断を仰いだ。その結果、建設費用、建設期間の点において久保田の提案の方が優れていることが判明し、以後同政権は久保田の提案に関心を抱いていった。

ところが南ベトナム政権は久保田にダニム水力発電所計画を委ねることはせず、1956年7月、フランス電力公社と久保田の両者に調査設計書を提出させた。同計画の日本企業の受注を期待していた小長谷大使はこの状況を憂い、「Danhim計画は日本工営案と仏国案の競争」になったと本省に電信している(4)。

小長谷は日本工営に受注させるため資金面について南ベトナム政権と折衝したが、その結果は思わしくなかった。先方の様子について小長谷は、

と本省に伝えている。

以上から明らかなように、南ベトナム政権は久保田とフランスを競わせる形を取ることで小長谷大使に「競争」との印象を与え、さらに久保田が受注するためにはその資金繰りとして経済援助ではなく純賠償でなければならないという認識を抱かせたのである。

久保田とフランスを競わせることによって日本からの賠償を引き出すという、いわば南ベトナムのバーゲニングパワーは、日本の政界において岸信介が外務大臣、そして首相に就任することによって、さらなる展開をもたらした。

南ベトナム政権のバーゲニングパワー

1956年12月に外務大臣に就任した岸は、翌1957年1月にアジア・太平洋地域公館長会議を東京で開催。同会議にはサイゴンから小長谷大使も出席した。そして、同会議の直後に5000万ドルを総額とする南ベトナム賠償の最終ラインが決定されている。この5000万ドルという数字の出自は明らかではないが、ダニム水力発電所計画を念頭に置いたものであったことが推測される。

さらに、この直後の1957年3月に久保田より岸信介に宛てた書簡が送られている。その内容は、ダニム水力発電所計画を含む純賠償を5000万ドルとし、その他に南ベトナム政権の希望する諸プロジェクトに充てる経済協力として5000万ドルを提案するものだった(総額1億ドル)。つまり、久保田はダニム水力発電所計画の全額を純賠償(無償資金供与)で行い、さらに経済協力として同政権の要求に応えることを具申したのである。

この久保田書簡で注目すべきは、ダニム水力発電所計画を含む純賠償額の増額を進言している点である。なぜならば、この点に久保田が南ベトナム政権の意を汲んで岸に働きかけていることが読み取れるからだ。つまり、フランスとの競争に勝ち、受注を得たい久保田は、同政権が望んでいるダニム水力発電所計画の純賠償供与のために、岸に純賠償の増額を願い出ているのである。

植村・トー交渉と賠償内容の確定

1957年9月より、日本政府は植村甲午郎経団連副会長を特別大使(第二次交渉より政府代表に格上げ)としてサイゴンに派遣し、グエン・ゴック・トー副大統領との直接交渉に当たらせた。そして、この交渉において両国は賠償の内容および金額について合意に至るのである。

9月30日より10月28日にかけて、第一次交渉が行われた。この度の交渉では、植村が純賠償2500万ドルから4000万ドルまで妥協の態度を示した一方で、トーは純賠償6300万ドル(総額1億1000万ドル)の線を譲らないという展開であった。ここで植村が2500万ドルから4000万ドルまで妥協したことの意味は、ダニム水力発電所計画費用(約4000万ドル)の純賠償の比率を約半額から全額にするという意図の変化があったということである。他方、トーが6300万ドルを譲らなかったのは、ダニム発電所費用以外のプロジェクトも純賠償に含めさせることができると考えていたためであった。

11月の岸首相のサイゴン訪問を経て、12月17日より31日にかけて、第二次交渉が行われた。この度の交渉では、植村が純賠償3900万ドルと政府借款1660万ドル(輸出入銀行による貸付け)を最終ラインとする一方で、トーは純賠償6300万ドルを固持するものの、最終的には純賠償4650万ドルと政府借款1160万ドルまで歩み寄るという展開であった。この度の争点は、ダニム水力発電所計画費用に加えて、同計画以外に南ベトナム政権が強く要求する肥料工場建設費用を純賠償に含めるか否かであった。

結果から見れば、肥料工場建設費用は純賠償ではなく政府借款で行うことで両者の意見は接近したのだが、その過程においてトーは、

と述べて、以前に小長谷大使に用いたのと同様の駆け引きを行っていた。しかしながら、肥料工場は日本側にとってうまみの少ないプロジェクトであり、かつ日本政府との仲介者となる久保田の存在もなかったため、純賠償には含められず、折衷案として政府借款で行うことになったのである。

二次にわたる植村・トー交渉は最終的には合意に至らなかったが、翌1958年3月になって南ベトナム政権が植村案の受諾を申し入れたため、上記の交渉で賠償内容が決定されたと言ってよいだろう。

以上の経緯を経て、南ベトナム賠償の内容と金額が確定され、南ベトナム政権はダニム水力発電所計画のほぼ全額を純賠償として獲得することに成功したのである(7)(この後、1959年5月の賠償協定調印まで、通商議定書問題等をめぐる交渉が継続されたが、本エッセイでは分量の制限のため割愛する)。

南ベトナム政権が賠償請求を行った背景

では、なぜ南ベトナム政権は上記のように執拗に対日賠償請求を行ったのか。この問題は、当時の南ベトナムの国内事情と対外関係の変化を考慮する必要がある。

第一の理由は、1956年末より生じる国家の経済建設の気運の高まり(国内事情の変化)である。1955年10月のベトナム共和国の成立を経て、首脳部の間には独立後一年間は政治体制の整備に集中し、二年目以降より経済建設を推進するという認識があった。例えば、1957年1月にトーは小長谷に対し、

と述べていた。

第二の理由は、1958年より最大の援助国である米国の援助額が大幅に縮小されたこと(対外関係の変化)である。米国の援助額は1957年の3億9270万ドルから1958年には2億4230万ドルへと実に約38%も縮小しており、この米国援助の縮小が南ベトナム政権を米国に代わる資金源として日本賠償に向かわせしめたという関係性は強くあったはずである。実際に、1957年10月にダーブロー米国大使が翌年の援助予算計画をゴー・ディン・ジエム大統領に伝えたところ、ジエムは危機感をあらわにして強く反発していた(9)。

おわりに

以上の理由によって、南ベトナム政権は対日賠償獲得の必要に迫られ、執拗に賠償請求を展開した。ダニム水力発電所計画についてはフランスも経済援助を申し出ていたため、同政権は「フランスの経済援助」という外交カードを有した。これが有力なバーゲニングパワーとなって、現地の日本大使に危機感を与え、久保田を動かし、最終的には植村特別大使との間でダニム水力発電所計画費用のほぼ全額を純賠償とすることの合意にこぎつけたのである(他方で、このバーゲニングパワーは同計画費用以外には効力がなく、よって肥料工場建設費用は純賠償に含められなかったことには注意を要する)。

本エッセイでは、南ベトナム政権のバーゲニングパワーを軸に両国間の賠償交渉を追ってきた。以上より明らかになったように、南ベトナム賠償とは単純に久保田が自社の利益獲得のために行動した結果ではなく、むしろ南ベトナム政権が自国の経済建設のために巧妙に久保田と日本政府を動かした結果だったと言えよう。

付記――利用資料の紹介

本エッセイ(および基となる修士論文)執筆に際し、2007年8月に公開された日本外務省の外交文書、および一部ベトナム側の資料を利用した。以下、利用資料のタイトルを参考までに書き記しておく。

外務省外交史料館(東京)所蔵資料(未刊行資料)
ヴィエトナム第二国家文書館(ホーチミン市)所蔵資料(未刊行資料)
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