リナ・ジョイは「棄教」できるか?――現代マレーシアのイスラムと改宗

光成歩
[2007年11月9日]

マレー人ムスリム(イスラム教徒)は、イスラムから他の宗教に合法的・公的に改宗できるのか?――これは、あるマレー人女性による、宗教の自由を根拠としたマレーシア連邦裁判所への問いかけである。連邦裁判所(マレーシアの世俗の司法制度における最高裁判所)が2007年5月30日に下した判決は、この問いに正面から答えるものではなく、「棄教」手続きは民事裁判所でなくシャリーア裁判所でおこなうべきと言い渡した。

シャリーアとはイスラム法を指す。マレーシアでは、ムスリムの身分法、宗教に関わる事項についてはシャリーア裁判所が取り扱うことになっており、一般の民事裁判所はシャリーア裁判所の管轄には干渉できない。

原告リナ・ジョイの改宗をめぐる訴えは、裁判で是非が問われると同時に、ムスリム・非ムスリムの境界を越えた論争の契機となった。以下では、リナ・ジョイの申し立ての社会問題性と、裁判における争点を概観する。そして憲法の位置づけ・解釈をめぐる論争の契機としてのリナ・ジョイ係争の意味を考える。

マレーシアにおける「棄教」とは

リナ・ジョイはキリスト教の洗礼をすでに受けており、裁判でムスリムとしての公的な身分を変更し、名実ともにキリスト教徒と認められるよう申し立てていた。つまり、この係争の本質は「改宗」のための手続きであったといえる。しかし、マレーシアではこの係争は「棄教問題」と言及され、イスラムを放棄するという側面がより強く問題化されている。これは、「棄教」が大罪であるというイスラムの教義上の位置づけに加え、マレーシアの文脈をふまえて理解されるべきである。

マレーシアはマレー人、華人、インド人、そして先住民により構成される多民族国家である。植民地期に大量にマレー半島に流入した華人・インド人に対し、マレー人は土着の民族であり、前二者に比べて経済的な遅れをとっていた。この民族間の経済格差の是正のため、マレー人優遇政策とよばれる格差是正政策が行われてきた。マレーシア連邦憲法第160条のマレー人定義では、「マレー人とはイスラムを信仰し、日常的にマレー語を話し、マレー人の慣習に従うもののことである」と定められており、この「マレー人定義」にもとづき、教育や就業機会の積極的な割り当てなどがおこなわれてきた。

「マレー人=イスラム」という結びつきは、かろうじて人口の過半数を占めるマレー人が政治的・経済的な特別待遇を享受し、民族アイデンティティを維持するための枠組みだった。リナ・ジョイの「棄教」申し立ては、そのようなマレーシアの大前提をマレー人自身の手で覆す行為だった。すなわちマレーシアにおけるマレー人の「棄教」は、イスラムの教えを放棄するとともに、それと結びついたマレー人コミュニティを捨てることをも含意しているのである。

申し立ての背景…結婚と改宗

リナ・ジョイ(Lina Joy)は本名(ムスリム名)をアズリナ・ジャイラニ(Azlina Jailani)といい、1964年、マレー人ムスリムの家庭に6人きょうだいの3番目の子として誕生した。1998年、34歳のときにインド人キリスト教徒の男性との結婚を希望して洗礼を受けてキリスト教に改宗した。翌年、国民登録局にてキリスト教への改宗を理由に身分証の名前をリナ・ジョイと変更した。しかし、身分証には彼女の宗教として「イスラム」と記載されており、この記載が削除されない限り彼女はキリスト教徒の男性とは結婚できない。マレーシアではムスリムと非ムスリムとの婚姻は法律上認められていないためである。

国民登録局は、イスラム記載の削除のためには本人の申し立てだけでなくシャリーア裁判所による「棄教」の証明書が必要であると主張し、リナ・ジョイの申請を拒否した。リナ・ジョイはマレーシア政府、国民登録局、連邦直轄領イスラーム評議会を相手取って裁判を起こした。

裁判の争点…誰が棄教を認めるか

裁判で提示された争点は以下の3つである。

  1. 国民登録局はリナ・ジョイにシャリーア裁判所の証明書の提出を求める法的な根拠を有しているか
  2. 国民登録局による上記の要求についての1990年国家登録規則の解釈は妥当であったか
  3. スーン・シン判決※における「黙示による管轄付与」の原則の採用は正当であったか
  4. リナ・ジョイが棄教する/自らの選んだ宗教を信仰する自由は憲法で保障されており、国民登録局が申請を認めないのは憲法に違反する

※スーン・シン(Soon Singh)判決は、ムスリムによる棄教について、それに関する法規定が存在しない場合でも例外的にシャリーア裁判所が管轄を有すると判断した1999年の連邦裁判所判決。以降、この判例は下級審を拘束してきた。

これらの争点は、言い換えると「誰が棄教を認めるのか」、「どちらの裁判所が棄教手続きのアリーナとして正当か」という問いへの答えを求めるものである。

もし国民登録局がイスラム記載の削除を認めれば、リナ・ジョイはイスラーム法の手続きによらずに「棄教」することが可能となる。「棄教」の抜け道として身分証の変更手続きが利用されることを嫌った国民登録局は、シャリーア裁判所での手続きを経ることを条件付けたのである。しかし国民登録局の規則は名前や宗教記載の変更についてそのような条件を定めているわけではない。それゆえ、リナ側は国民登録局が出した条件が法的根拠のないものと主張している。

また、マレーシアではイスラム関連条例が州ごとに定められているが、リナ・ジョイが改宗手続きを行おうとした連邦直轄領(首都クアラ・ルンプールとラブアン)のイスラーム関連法にはそもそも「棄教」のための手続きや法規定が定められていない。シャリーア裁判所の裁判管轄はイスラム法規定の存在によって付与されることから、「棄教」についての法規定がない以上、連邦直轄領のシャリーア裁判所はリナ・ジョイの事件について管轄をもたないことになる。

そこで問題となるのが第三の争点である。「黙示による管轄付与」とは、明確な法規定がなくとも、類推によりイスラム法の領域に属すると考えられる事項、すなわち「棄教」について、その管轄がシャリーア裁判所に属すとする原則である。マレーシアではシャリーア裁判所と民事裁判所が互いに排他的な法管轄を有する二元的な司法制度がとられており、「黙示による管轄付与」の原則が採用されれば、リナ・ジョイの「棄教」手続きは民事裁判所では行うことができなくなる。

リナ・ジョイ側は、改宗は憲法で保障された個人の自由であり、その是非は連邦裁判所のみが判断しうると主張した。他方、政府・国民登録局側は「棄教」の権利は否定しないものの、それがイスラム法の手続きを経て行われるべきであり、シャリーア裁判所が「棄教」手続きの唯一の正当な場であると主張した。

判決

リナの上告は2-1の多数決により棄却された。判決は政府・国民登録局側の主張を全面的に認めるもので、「棄教」の管轄はシャリーア裁判所が有していると判断した。また民事裁判所に管轄がないことから、実質的な「棄教」と「宗教の自由」の関係の審議はなされなかった。これに対して少数意見は係争を「憲法上の権利に関わる問題」と捉え、民事裁判所が扱うべきであると主張した。

裁判官の意見の分裂は、係争の捉えかたという根本的な部分からくるものである。すなわち多数意見は係争を行政・司法手続きについての技術的な問題として扱い、少数意見は憲法問題と捉えているのである。

宗教・民族の境界で

判決に対するマレーシアの世論は、判決を支持するムスリム団体と、少数意見を支持する人権団体・女性団体・宗教団体(非イスラムの宗教団体やその合同組織)とに二分されている。後者はリナ・ジョイ係争を憲法の至高性を問うテスト・ケースと位置づけており、リナ・ジョイ本人の改宗の是非を超えた重要性を主張している。このうち人権団体や女性団体のなかには活発な言論活動を行うムスリム団体や個人が少数ながら含まれている。これに対し、判決を支持するムスリムの団体は、こうした団体・個人の主張を一方的なイスラムへの干渉、イスラム法制度への挑戦ととらえて反発している。しかし、世論の分裂は必ずしもイスラムを境界としたものではない。

マレー人ムスリムの公的手段による「棄教」の試みとそれへの支持言説のあらわれは、現代マレーシアにおける二つの大きな変化を指し示している。第一は、「マレー人=イスラム」の結びつきがマレー人自身によって問い直されていること。そして第二に、憲法問題という経路を通じ、非マレー人、非ムスリムがこうした試みを支持し、議論に参加していることである。

ここ数年の間に、配偶者のイスラム改宗により非ムスリムの配偶者や家族がシャリーア裁判所の決定の影響を受ける問題が顕在化している。改宗ムスリム-非ムスリム間の紛争もまたリナ・ジョイ係争のように扱う裁判所管轄が曖昧であり、非ムスリムは現状をイスラム法の影響力の拡大であると批判している。

リナ・ジョイの係争は、近年社会問題化しているこれらの管轄問題と法律上の争点は類似しているが、社会的な含意は大きく異なっている。リナ・ジョイの係争はマレー人を主体とする改宗(「棄教」)係争であり、それ自体が民族や宗教の境界をまたぐ問題であった。それにより、民族・宗教の問題でありながら、特定の宗教や民族コミュニティのみが当事者とならない議論の構図が形成されたのである。

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