2010年7月16日
古田元夫
このたび塩川伸明氏が、氏のホームページ上の「読書ノート」欄に拙著『ドイモイの誕生』の書評を書いてくださった。最近は、日本でもベトナム研究者の数が増えている。これは、私にとっても喜ぶべきことなのだが、学会誌などでの拙著の書評が、ベトナム研究者に依頼されがちになる、という新しい問題も生まれている。このような中で、この間、歴史として存在した社会主義体制に関する好論を次々に発表している塩川氏に、拙著を取り上げていただき、社会主義論という角度から、建設的な論評をいただいたことは、たいへんありがたいことだった。塩川氏の好意を無にしないためにも、氏の指摘のうちのいくつかについて、現段階での私の考えを述べておきたい。
(1) 社会主義の「民族化」について
拙著は、ベトナムのドイモイ提唱を、「社会主義の民族化」の試みと位置付けている。この点に関し、塩川氏は、ベトナムの試みがペレストロイカの摸倣ではない独自のものだったということは理解できるが、それを「民族化」と見なすには飛躍があり、「旧来のモデルの『普遍性』を承認した上で、そこからのささやかな逸脱を正当化するという発想から、むしろ何が『普遍』で何が『特殊』かの判断を逆転させる発想が登場した」当時の社会主義諸国の改革の中では、ベトナムのドイモイを、「普遍」に対するベトナムの「特殊」性の強調=「民族化」とみなすべきではないのではないかとしている。
ソ連に限らず、当時の社会主義諸国の動向を広く見ている塩川氏の、ドイモイは「他の社会主義諸国で進んでいた種々の動きと同時代的に、おそらく相互刺激関係をもちながら進んでいた」改革と見なすべきではないかという視点は重要で、拙著の視野がベトナムから広がりをもっていない点は、批判を受けていたしかたのない弱点であると、私自身も考えている。
その上で、なお私としては、ベトナム共産党自身は、ドイモイを「普遍」モデルからの離脱=民族化として意識していた面が強いことを強調しておきたい。これは1995年の拙著『ベトナムの世界史』で、ドイモイを人類普遍的な理念を体現した「社会主義ベトナム」という「普遍国家」から、ベトナム的な社会主義=「ベトナム社会主義」を志向する「地域国家」への転換と描いたことと軌を一にしている。「普遍」モデルからの離脱が、民族化のみに帰結しない場合があることは、中国共産党のいう毛沢東思想が、「マルクス・レーニン主義の中国化」であると同時に、従来のモデルに代わる新たな「普遍」の提唱であった事例などに見られる。朝鮮労働党の金日成思想にも、これと似た面があったといえるだろう。これに対して、ベトナムのドイモイの提唱、およびその直後に出てきたホーチミン思想の提唱は、少なくとも提唱時の段階では、新たな「普遍」の定立としてではなく、特殊ベトナム的な面の強調=民族化という性格が強かったと考えている。1986年のドイモイの提唱に焦点を合わせるのであれば、「社会主義の民族化」でよいというのが、塩川氏の批判もふまえた上での、私の考えである。
なお、これはベトナムのドイモイが、新たな「普遍」の定立につながる可能性をもたないという意味ではない。この点は、あとででてくる資本主義への「割り切れなさ」の表現としての「社会主義」という問題との関係で、再度取り上げてみたい。
また、塩川氏は、私の「民族化」という用語は、ベトナムの多民族性という観点を無視しているという指摘もしている。古田はベトナムの民族問題に長く取り組んできたのだから、「民族化」という概念を使うのであれば、多民族性との関係についての言及があるべきだったという批判としては、氏の指摘は正当である。ただし、「伝統との結合」といった面ももつとみなされるようになった「ベトナム社会主義」では、多数民族であるキン族の伝統が強調されることがある。ベトナムの多民族性という観点との関係が問題なのは、私の認識というよりは、「ベトナム社会主義」そのものではなかろうか。
(2) 「改革派賛美論」か?
塩川氏の拙著への批判のいまひとつの論点は、古田の議論が、保守派は頑迷固陋な教条主義者、改革派は大衆の創意に支えられた柔軟な人たちという、「単純な二元論」になっているという批判である。
塩川氏は、社会主義体制における「改革の困難性は、単に『教条的な保守派』の抵抗にのみ帰されるのではなく、もっと深刻なものがあるのではないかということが指摘されるようになってきた」として、市場型の経済改革がもたらす価格上昇、失業の可能性を含む労働規律引き締めと雇用合理化、所得格差拡大などに対する大衆的な反発を指摘している。こうした問題を見ない、「改革派賛美論」は説得力がないというのは、氏の指摘のとおりだと考える。
しかしながら、ベトナムの場合、私が「貧しさを分かちあう社会主義」と呼んだ古いモデルの社会主義は、ソ連・東欧などに比べるとはるかに社会を包摂しきれていなかったように思われる。まず、国土の半分のベトナム南部は、1975年以降にこのモデルが導入されたばかりで、かつ強い抵抗にあったため、ほとんど定着していなかった。ベトナム北部では、このモデルはベトナム戦争中に一応の定着をみたものだったが、戦時体制という色彩が強く、ベトナム戦争終結後は「ほころび」が目立つようになっていた。1970年代末のハノイなど北部の大都市の場合、勤労者の生活で「貧しさを分かちあう社会主義」の公的なシステムが包摂していたのは、4分の1から3分の1程度だったといわれている。勤労者は、生活必需品のかなりの部分を、配給価格の10倍近くする「自由市場価格」で購入せざるをえなかったのであり、そうした状況のもとでは、配給価格の引き上げは、それ自体としてはそれほど大きな反発を招くものではなかった。改革の大半が、人々の行っていた「闇行為」の国家による追認という性格をもったベトナムでは、古いモデルの社会主義のもとで形成された既得権益を守ろうとする反発は、それほど強力ではなかったと、私は考えている。
また、私は、ベトナムに即してみた場合には、改革派と保守派というのは相対的な区別にすぎないと考えている。拙著の議論の中心であるチュオン・チンは、一貫して改革派であったわけはなく、1984年に保守派から改革派に「転身」した人物で、1979年の時点で見れば、レ・ズアン書記長のほうがはるかに改革的だった。また、チュオン・チンが、「頑迷固陋」な保守派としての経歴をもつ人物であったことが、共産党内に大きな分裂を引き起こすことなく、ドイモイ提唱に至った要因だったとも考えている。
保守派対改革派の対抗の図式でベトナムのドイモイを描く議論は、焦点をグエン・ヴァン・リン(第6回大会で党書記長に選出)やヴォー・ヴァン・キエットなどの、いわゆる「南部改革派」にあわせたものが多い。確かに、ベトナム戦争終結からドイモイの提唱までの時期のベトナム共産党の政治局員クラスの指導者で、一貫して改革派だったといいうるのはヴォー・ヴァン・キエットくらいで、その役割は重視されてよいと思うが、私は「南部部改革派」だけではドイモイを導けなかったと考えている。拙著は、北部の保守派と南部の改革派の対抗という図式でドイモイの起源を描くことへの批判を意図している。
(3) 「割り切れなさ」の表現としての「社会主義」
ベトナムが、ソ連・東欧における社会主義体制の崩壊後も「社会主義堅持」を標榜している理由について、私は以前、資本主義とは原理的に異なる経済システムで効率的に国民経済を機能させる代替案は存在しないことが明確になったが、資本主義が万全のモデルではないため、さまざまな「割り切れなさ」が存在しており、これが「社会主義」という看板で表現されているという議論をしたことがある。塩川氏は、この古田の議論をふまえて、1980年代末以降の体制選択は、「かつてのように資本主義か社会主義かではなく、資本主義経済システムを共通の基盤とした上で、『恥も外聞もない資本主義化』かそれとも『割り切れなさ』の感覚を何らかの形で生かそうとしていくのかというところにあるのかもしれない」とされている。私は、「割り切れなさ」に「恥も外聞もない資本主義化」を対比するところまでは考えていなかったので、この塩川氏の提言を積極的に受けとめたいと考えている。
私は、この「割り切れなさ」が、北欧の社会民主主義システムと対比しうるような社会システムの形成にまで結晶すれば―たとえば、ベトナムがASEAN先発国並みの経済発展をとげる一方で格差是正に見るべき成果を収めるというようなことができれば、それは、新しい「普遍」の提示につながりうると考えている。このような意味では、「社会主義を民族化」した「地域国家」ベトナムが、ふたたび「普遍国家」として自らを位置づけていく可能性は存在している。ただ、この可能性が、ベトナムの共産党や政府の公的言説あるいは一部のベトナム知識人の「夢物語」ではなく、多くのベトナム人にとっても、世界の人々にとっても説得力のあるものになるためには、ベトナムの発展の現実が新たな人類的「普遍」の提示となる実をあげなければならないだろう。かりにベトナムが、こうした「普遍」の提示にある程度成功したとして、それを何と呼ぶのかは、その時点でベトナムの人々が決めるべきことではある。塩川氏は、「割り切れなさ」を「社会主義」と呼ぶかどうかはどうでもよいとしておられる。私は、なお「社会主義」という看板に未練はあるのだが、今の知識の範囲で考えると、ベトナムが生み出しうるのは、「アジア型社会民主主義」あるいは「民族社会民主主義」ということになるのかとも考えている。ただ、今のベトナムが目指しているのは社会民主主義だと断定するのも早計だと思われる。こうした「迷い」が、私の「割り切れなさ」という議論には反映されている。「割り切れていない」のは私自身でもある。
東京大学大学院総合文化研究科(地域文化研究専攻) 古田元夫ゼミ
