「文学部で学ぶということ」

牧原 成征

 私自身はとくに進学振分けで悩んだ経験がありません。もともと歴史、日本史に関心があって、高校の時にはすでにそれを勉強したいと思って大学に入り、駒場では他にも面白そうな学問があるなと思いながらも、進振りで結局、初志を貫徹して、文学部日本史学(国史学)専修課程に進学しました。偶々、今はそこの教員になっています。ですから、進振りに悩む学生のみなさんに特にアドバイスできるようなことはないのですが、あえて言えば、やはり自分の純粋な興味関心を大切にしてほしい、ということに尽きます。大学は専門学校ではないので、学部学科・専攻によって濃淡はありますが、職業上、直接に役に立つスキルを学ぶ場ではありません。仕事の現場に入れば身につけざるをえないようなスキルではなく、大学でしか学べないことを学び、自分が本当に探求したいことを満喫して卒業することが悔いのない選択になると思います。

 東大の、いわゆる文系学部は、法・文・経済・教育の4学部です(教養学部もありますが)。つまり、国家や経済の要請にこたえる性格が強い法学・経済学・教育学のわずか三分野のほか、文系の諸学問はすべて文学部に包摂されています。つまり、文系の学問分野の大半・ほとんどを担っているのが文学部なのです。文系の学生のみなさんが、もともとの興味関心にしたがって進学先を選べば、大半の人はまずは文学部を進学先として考えるのが自然なのです。就職活動の際に、文学部だと不利になるのではないかというような俗説があるようですが、以上のような文学部の属性からして、また実際の卒業生の就職状況からみても、まったくナンセンスな話です。

文学部の特徴は、以上のように、文系全般(あるいは理系にまでも)にわたる広さ・多様性と、「御用学問」とは無縁な批判精神とにあるといえます。また、法学・経済学・教育学や理系の諸学問が、それなりの「体系」を構築している、しようとしている(したがってそれを理解・吸収するところから学問・研究・教育が始まる)のに対し、文学部の諸学問は、先学の積み重ねてきたものを大切にしながら、むしろ「体系」や「常識」を疑い、教科書的なものに囚われない柔軟な発想を重視する点にも共通する特徴があるように思います。そのため文学部では概論などの必修科目はごく少なく、大半が特殊講義や演習科目となっています。人間に本源的な「よくわからないもの」に対する興味関心、知的好奇心に突き動かされて、自然と湧き上がってくる疑問を解決しようとする学問本来の営みを忠実に実践している場が文学部なのです。現実の社会や経済も、そうした知的好奇心をもって、日々、疑問を解決しようとする人間個々人が担っている以上、文学部で学ぶことが、本質的な意味でこれからの人生に有意義であることは疑いないと思います。

 ある新聞記事によれば、経済同友会の幹部の話として、企業が本当に求めているのは、就職活動の際に、判で押したように「バイトでコミュニケーション能力を身につけた」というような学生や「金太郎アメ社員」ではなく、「自ら現場に飛び込んで意見を述べ、課題を解決できる力」をもつ学生だということです(8月22日、朝日新聞朝刊)。したがって文学部は、まさに実社会で真に必要とされる人材を育てていることになると思いますが、広い領域にわたる文学部の諸学問に私が通暁しているわけではありませんので、自分の専攻する歴史学・日本史を念頭において、とくに重要と思われる資質についてもう少し述べておこうと思います。

まず、歴史学に限らず、文学部系の諸学問を修めるうえで、なによりも大切な資質は、言語能力です。歴史学の場合も、先人の書き残した史料・情報から、その微妙なニュアンスや含意を汲み取るために、言語の能力・感覚は決定的に重要です。人はなにかを考え、表現し、共有し、実現するために言語という手段を発展させてきました。言語についての深い理解・洞察は、人間とそれが形作る社会を理解するうえで必須であり、きわめて有用な力です。次に、たとえば歴史学や文学は、自分が直接体験することができない世界や時代のありようを対象にするのですから、想像力も欠かせません。このほかに、資料を探し求めて自ら行動をおこす主体性、行動力も大切です。

これら3つの力は、知的好奇心や柔軟な発想とともに、これからの時代を生き抜くうえで不可欠で、実社会でもきわめて有用な能力です。そして、そうした能力は、はじめから備わっているのではなく、「培う」ものにほかなりません。逆にいえば、文学部で学ぶということは言語能力や想像力、行動力を鍛えることにほかならないわけです。これらに自信のない人こそ、文学部でそれを磨いてほしいと思います。

文学部は、以上のように実業や公務の世界で活躍する人材を送り出していますが、それだけではなく、文系の大半を占める諸学問を継承・発展させる責任も負っています。簡単にいえば、大学院、とくに博士課程にまで進学し、それぞれの学問を継承する人材を育てることも重視しているということです。ただし、だれもが研究者に向いているというわけではありませんので、研究者に必要な資質についても一言だけ私見を述べておきます。もちろん、凡庸な一研究者の戯言と思って読んでください。

それは、たんに頭がよいということではまったくなく、ある種の問題に関して、強いこだわりがあるということだと思います。そのこだわりの強さとは、それについて調べ、考え始めたら、文字通り「寝食を忘れる」くらい粘り強さを発揮できるということです。ただし、いわゆるマニアや「おたく」とも違います。研究者は、物の本を読んで、細かな知識をたくさん蓄えていることではなく、むしろ、そうした本に書かれている知識自体を根底から疑う姿勢が欠かせないからです。そうして疑って(たとえば歴史学の場合は)史料に即して自分の眼で確認し、考え抜く姿勢を持ち続けるということが、研究をするということであり、そこに、楽しむことが第一であるマニアや趣味の場合と大きく異なる点があるように思います。したがって研究をすることは、まさに楽しくも苦しい道のりになります。

逆に、物の本に書いてあるようなことを、ひっかかることなく、すっと吸収してしまうタイプは(東大にはしばしばいますが)研究者にはまったく向いていません。むしろ人よりも分かりが遅く、なにかにひっかかって考え込んでしまうようなタイプの人こそが研究者に向いています。なににこだわりを感じるかは、少し、なにかを勉強・体験してみないとわからないと思います。これまでに勉強・体験したもののなかで、なにかに強いこだわりを感じたら、それは研究者への第一歩だと思ってみましょう。

 もちろん、研究者という進路に興味がなく、民間企業や公務員、資格職を目指すという人が大勢かと思います。皆さんの出て行く実社会では、グローバルにタフに生きていくことが求められているようです。最近ではグローバル化というととにかく英語、という風潮・印象が強いのですが、本当に重要なのは多文化共生であることはいうまでもありません。その意味でも、世界各地の思想・歴史・言語・社会の多元的なあり方を重視する文学部で学ぶ意味は大きいと思います。それはともかく、グローバルにタフに生きられる人、そうしたい人は、もちろんそれを実践すればよいわけですが、それが本当に幸せで、自分に向いているのかは考えてみる必要があると思います。グローバルな経済の第一線で活躍する男女が、どうやって家庭を築き、子供を育てるのでしょうか。老いてゆく親の介護はどうするのでしょうか、私もみなさんの年頃には何も考えていませんでした。まだ二十歳そこそこの皆さんにこんなことを言ってもリアリティがないと思いますが、しかし、あと10、20年たてば、みなさんもかならず直面する問題です。

 私の専門は日本近世史です。歴史学(しかも前近代史)というと一見、現実の社会とは無縁のように思われがちですが、そうではありません。近世錐]戸時代以来の伝統的な家や地域社会が崩壊し、グローバル化が急速に進展するなか、社会(経済・国家)の制度や仕組みをどうするのか、そこで我々はどう生きるのか、これらは我々が突きつけられている課題です。先人たちが生活を構築してきた歴史を学ぶことは、まさにこの社会のあり方や、そのなかでの生き方を考えることにほかならないのです。


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