進学情報センター相談室で思うこと

進学情報センター 斎藤文修

山手線の高田馬場駅を電車が発車した直後、「鉄腕アトムの歌を、今、福島で歌ったら不謹慎だよな。」「ああ、妹はウランちゃんだしね。」と、学生らしい二人連れが話すのを耳にした。思いがけない発想と面白く思いながら、高田馬場はお茶の水博士と関係があって、そのため発車のメロディーは「鉄腕アトム」が使われていること、アトムは2003年に「誕生」したばかりであることなどと話すのを聞いた。

この話を進学情報センター相談室で思い出しながら、鉄腕アトムが生活の中でどのように関わっていたか振り返ってみた。小学校時代からと思うが、鉄腕アトムはテレビで繰り返し放映され、鉄腕アトムの歌は小学校や中学校の運動会などでもよく流されていた。もちろん鉄腕アトムの歌の効果がすべてというわけではないが、あれほど繰り返し聞かされると、原子力発電で生じる危険性について多くの人が無防備になるのも無理もないかなという気もする。それでは、鉄腕アトムに対して原子力発電を推進したという「責任」を問うことができるだろうか。鉄腕アトムの動力源は原子力であり、作者の手塚治虫さんや作詞者の谷川俊太郎さんが原子力あるいは広く科学に対し、大きな期待を寄せていたのは明らかであろう。原子力に対してバラ色の期待を寄せていたからといって、両氏が使用済み核燃料の処理システムを欠いた「今ある原子力発電」も肯定していたであろうか。このように考えると、簡単に「責任」を論じることができなくなる。おそらく否定的だったのではないか。ご存知の方がいらっしゃれば、教えていただきたい。

法学部の先生が進学情報センターに来られた際に、法学部の教育についてお話を伺った。全科類枠が設けられて文科1類から法学部に進学するための競争が激しくなり、進学振分けの点数ばかりを気にして、学生があまり本を読まなくなっているのではないかと気になっていた。そこで、広くバランスのとれた法学のセンスといったものを、どのように教育するのかとお尋ねした。「法学のセンスというのは、法学の研究者、法曹界、国家公務員あるいは会社の法務関係の職に就く人たちを除いて、学生にとってどれだけ必要なのでしょう。どうも学生は、あまり身につけようと意識していない。パワーポイントを使って講義される先生も結構いらっしゃるし、それも仕方がないかなと思います。ただ私は、法学の微妙なニュアンスを伝えるのにパワーポイントは不向きと思っているので、使いません。法学の面白さは、その微妙なところを理解することですから。」謙遜されていたのかもしれないが、ちょっと肩すかしを食わされたような気もした。しかし、よく考えてみると自分が教員として学生をどのように教育しようかというときには、やはり同じ位置から教育に当たるのではないかと思う。いずれにせよ、どの分野においても、微妙なニュアンスというのは必須のもので、面白さというものはその理解に大きく依存しているに違いない。ダイジェスト版の小説を読む気にならないのは明らかであろう。

社会に関心が向きだした時期がちょうど中国の文化大革命の時代と重なっていたため、その時に得た知識と考えたことが、多分に人間形成に影響していると思う。中国人の知人と話しているときに、ふと思いついて、「1971年の林彪事件のときに、林彪が家族とともに飛行機で飛び去ったと知らされた毛沢東が、「雨は降るものだし、娘は嫁に行くものだ。」と言ったそうだが、これはどう解釈すべきなのか。当たり前のことを言っているようだが、それでは暢気すぎて、どうもピンとこない。」と、疑問に思い続けていることを尋ねた。そうしたら、「それは、「天有下雨、娘要家」というのだが、中国語と日本語では娘の意味が違う。中国語では、娘は子供のいるお母さんのことです。この場合は、後家さんになったお母さんは、婚家を出て行って再婚するということですよ。」と教えてくれた。「一が分かれて二になる」といった哲学的(?)政治スローガンに影響されて、素直に毛沢東の個人的な感慨を理解するに至らなかったとは、ニャンとも恥ずかしい。残された老人からすれば、息子を亡くした後、今また嫁が孫を連れて、あるいは孫を残して出て行ってしまうということは、何とも切なく哀しいものに違いない。不如意なことが起き、これに対し正しく対処ができないために、さらに次の不如意なことを引き起こしてしまう。孤独な毛沢東の姿が思い浮かぶ。

進学相談で、「進学先として、この学科とこの学科では、どちらがよいでしょうか。」という質問がある。このように絞り込まれた質問に対する回答は単純で、回答者として非常に気楽である。どっちでも良い、いや、どちらも良いのである。質問する学生にとっては、背中への最後のひと押しを期待して相談に来ているのであろうが、こちらとしては、簡単に背中を押してたまるものかと構えている。学生のやりたいことを確認しながら、学生の考えていない側面が見つかるようにと話をしていると、納得した様子で引き上げてもらえる。学生の方でこんな人と話をしても時間の無駄と見切りをつけているのかもしれない。

次に簡単なのは、「この学科に進学したら、就職は良いのでしょうか。」という質問である。就職が良いというのは、容易に就職先が内定する、給料が高いといったことで、これらに対し簡単な回答を期待してくるのであろう。しかし、この先、世の中、何が起きるものかは分かったものではないのである。したがって、「あなたが責任ある立場で活躍する時期に、現在の花形産業あるいは人気のある研究分野が、今と同様に、そのままわが世の春を謳歌していると思いますか。」というのが、回答となる。例えば、航空宇宙学科は工学部の人気学科の一つである。しかし、ぼくが学生の頃は、レジャーランドと呼ばれていた。米ソが競って宇宙に乗り出していた時代であったから、日本でもロケットを打ち上げたいと、学生は夢を持って進学した。ところが、教官に「そんなことはやっていない。」と言われて意気阻喪してしまう。自動車産業が就職先として保証されているから・・・という次第であったと思う。日本の経済的な発展とともに、航空宇宙関係の予算が増加し、世界で注目、称賛される成果が得られるように発展するとは、その当時、だれもが思っていたわけではないであろう。現在、第一線で活躍されている研究者は、その中で頑張ってこられた人たちである。その覚悟があればどこに進学しても良いと思っている。

社会の理解と研究のレベルはギャップがあるのが当然であるが、このことは学生にあまり意識されていないようだ。文系であろうが、理系であろうが、大学で学ぶことが必ずしも企業に就職して直接に役に立つわけではない。喫緊のエネルギー問題にしても、各開発課題の実用化には、それぞれ長い年月が必要で、中には実用化に至らないものもあると思われる。「実現しない夢物語で若い人を引きずりこんで、国から予算が来なくなったらどうするんだ。」と原子力工学の先生からお聞きしたことがある。念のため申し添えれば、この話は原子力発電のことではないし、この先生も原子力発電に反対の立場の研究者ではない。この分野の研究を志望するといって相談に来た学生には、実用化の困難なこと、長い年月がかかるであろうことを説明している。ただ、特定の研究分野を否定的ばかりに紹介することはしない。志望の硬い学生に対しては、「大変だけれども頑張れ。」と言って相談を終わる。材料科学をやるから、必ずしも袋小路ではないだろう、しかたがないかと、少々、「天有下雨、・・・・」である。

今年は、大震災と原発事故の影響か4,5月に例年よりも多くの学生が相談室に来た。「何を学んだらよいか分からない。」と自信を失って話す学生も少なからずいた。このようなときには、分からないと自覚し、そのうえで自分がどんなことに興味を持っているのか確認し、そこから可能性を見出していくしかないように思う。しかし、自分の弱さばかりに目が行ってなかなか視野が広がらないようである。見るからに元気がない。電力不足から予定された講義のコマ数が実施できるか危ぶまれている時期であったから「今回の事故で、一番大変なのはあなたたちの世代だろう。大学の予算は削られ、講義も十分受けられず、就職のときには日本の景気がどん底かもしれない。そのうえ、日本の復興と安全安心な社会を築き上げるという重責を担わなければならない。申し訳ないけれども、頑張ってくれ。」と話した。他人からの期待と信頼を聞くうちに、学生の背筋がだんだんと伸びて来る。震災と原発事故に続くあの暗い日々の中で、感動と元気をもらったような気がした。


agc@park.itc.u-tokyo.ac.jp