学科紹介

材料としての木」というキャッチコピーに誘われて

―テニス小僧が研究に目覚めるまで―

大学院農学生命科学研究科 生物材料科学専攻 准教授 五十嵐圭日子(きよひこ)

東京郊外のさほど有名ではない都立高校の出身だった私が、一年浪人して東京大学理科2類に入学したのはちょうど20年前のことである。当時の私の成績は、「東大に入ります」と胸を張って言えるような「浪人生」ではなかったので、合格発表の当日も母から「都心まで行くなら秋葉原で壊れたトースターの修理をしてきてくれない?」と頼まれるほど家族そろって私が合格する予定は全くなかった。電気屋で「実はこのあと大学入試の合格発表を見に行くんです」となじみの店員さんに話すと、「そんな人生の一大事になんでトースターの修理に来てるんですか!」と怒られるほど、そのときの私には緊張感が無かった。当時東大の合格発表では合格者の氏名が張り出されていたので、発表を見に行くのは同じ高校から受験した友達が受かったかどうかを確かめることが目的だと、秋葉原からの電車の中で決めていた。そうこうしながらも合格発表の30分ほど前に本郷キャンパスの正門前に着いたのだが、その時はすでに合格発表を心待ちにしている確信型の受験生や、クラブやサークルの勧誘のために来ている先輩達、マスコミや予備校の人達でごった返していた。多くの人が道にあふれていたので、予定の15分ほど前に正門が開けられ、確信型の受験生達や先輩達は一気に走り込んでいたが、「友達の合格を確かめに行く」私は取り残された感じであった。掲示板前は、自分の名前を見つけて胴上げをされている受験生や、自分の名前が無くて呆然としている人達に覆われていて、自分の名前があるはずのところを見ることができなかった。友達の結果を見に来たとは言え、さすがに自分の不合格を見る前に人の合否をチェックするのはおかしいだろうと思い直して、ジャンプしながら自分の名前があるはずのところを見てみると、何となくであるが見慣れた名前が見える気がする。そこで人をかき分けながら前の方に進んで見ると自分の目の前に自分の名前がある。にわかには信じがたく、まずはこの掲示板のタイトルを見てみると、確かに「合格者一覧」とある。さらに隣に立っていたアメフト部の人に「これって僕の名前ですよね?」と聞くと、(私の名前など知るはずもないのに)「そうだよ!それは君の名前だ!よし胴上げだ!」と周りにいた部員と私の胴上げをはじめ、気がつくと私は合格証がもらえるところへ走り出していた。合格証をもらうところでセンター試験の受験票を持っていないことに気付き、やる気が無かった少し前の自分を責めながらも、無事合格証を手にしてようやく自分が受かったことを実感していた。なるべく早く母に合格したことを伝えたかったのだが、当時は携帯電話という便利なものはなく、電話ボックスに駆け込もうとするが長蛇の列。そこで正門の迎えにある本屋さんに100円玉を見せながら「電話を貸してください、受かっちゃったんです」と言うと、店にいたおばさんも毎年のことで慣れていたのか「(ただで)使っていいわよ」と言ってくれた。急いで母に電話すると「何言ってるの、もう一度ちゃんと確かめてきなさい」「いや、もう合格証ももらったんだ」「なんで?何、受かっちゃったの?」と言って電話越しに嬉し泣きを始めてしまったので、これから予備校に報告しに行ってそれから帰ると伝えて電話を切った。すでに友達の合格を確かめるという当初の目的はどこか遠くへ吹き飛んでしまっていたのは言うまでもない。冒頭に述べたようにこれはすでに20年前の話なのだが、今でもこのときの光景は私の記憶の中に鮮明に刻まれている。

このように、期せずして東大に入学できた私であったが、その後非常に練習が厳しいテニスサークルに初心者として入ってしまったことが災いして、毎日がテニス三昧、たまに出る授業にはついて行かれず、学期末のテストで成績が振るわず、今度は「○○学科に進学します」胸を張って言うことができないほど低い成績の「テニス小僧」になっていた。上に書いたように自分はもともと運良く東大に入れたような者であるし、「この勉強がしたい」とか「こういう研究がしたい」と思っていたわけでもないので、2年生の時は3年生になれさえすれば良いと考えるようになっていた。その時の私は、合格発表前の「友達の合格を確かめに行くような自分」と非常に似ている気がして、今考えると恥ずかしくなる。そんな低い平均点と進学先を決めることに消極的だった私の元に一通のダイレクトメールが届いたのは、漠然と「3年生になるためにはどこの学科に進学すればいいのかなあ」と考え始めた2年生の6月頃だった。そのダイレクトメールが、普通のダイレクトメールと確実に違ったのは、他でもない東大から来たということであった。今では個人情報保護法などの影響で、あまりこういうことをしてはいけないらしいが、そのダイレクトメールには「材料としての木を勉強してみませんか?」というようなキャッチコピーが書いてあった。大してまじめに授業に出ていなかった私には、勉強と言えば英語、数学、国語、理科、社会、ちょっと深く考えても代数とか幾何、ドイツ語、物理、化学くらいしか思い浮かばなかったので、「材料としての木」という勉強と言われても何のことか全くイメージが沸かなかった。しかし、両親の影響か私は小学生の頃から木工や木彫りといった工芸をするのが好きで、あるとき父が「近い将来ボディーが柔らかい車が走るらしい」と言っていたことを思い出して、未来の「木でできた車」を想像したりしていたので、「材料としての木」というキャッチコピーは印象に残った。駒場時代の私は第二外国語の成績が慢性的に悪く、平均点が低いだけでなく進学自体も危ぶまれていたので何回か進学情報センターに通っていたのだが、そこで「材料としての木」を勉強できる学科に関して聞いてみると、「面白い学科なんだけど、人気がないんだよねえ」と言われ、ますます興味を持ったのであった。2年生の夏過ぎに進振りの結果が分かり、あの「材料としての木」の生物素材化学専修(旧林産学科)に行くことになった。しかし、当時の私にとってそれ以上に重要だったのは「黒マジ」を乗り越えて無事進学することであったので、2年生の冬学期はもっぱら第二外国語の勉強ばかりで、専門科目はただ出席をしに行くような感じだった。しかし、その専門科目の授業は普段の授業といくつか違うことがあった。まず、受けに来る者がみんな私と同じような境遇、すなわち部活などで進学すら危ぶまれている者が多く、何となく授業がとげとげしくなく雰囲気がマイルドだった。さらに、教えに来る先生達も小難しそうな感じではなく、こちらもマイルドな雰囲気で、授業全体が柔らかい感じに包まれていた。

私が所属していたサークルの同期には、留年が危ぶまれた者が私を含めて3人いたのだが、その3人ともが「黒マジ」を回避し、晴れて目標だった3年生になることができた。3年生になるとサークルのマネージャー生活が終わったせいか時間にゆとりがあり、さらに私が好きな実験の時間が増えたので、学生の本分を果たすことが徐々に楽しくなっていった。中でも私が学業に傾倒した理由は「実感できる実験」であった。それまでの実験は確かに実験だったのだが、あまりきちんと勉強していなかった私には、何のための実験なのかが見当が付かないものが多く、こうしろと書かれているからそうするという場面が多かった。しかし3年生の時の実験は、木の成分を調べたり、木の強度を調べたり、木を鑑定したりと「木」好きだった私にはどれも興味が持てるものばかりであった。実験が面白くなるとそれを理解するための講義が面白くなる、講義を受けると実験がより理解できるようになる、そんな好循環を繰り返して、いつの日からか私はサークルよりも学業を優先するようになっていたのであった。4年生になって研究室に配属されるときは、当時走りだったバイオテクノロジーに興味を持ち始めており、私が今でも所属している森林化学研究室に入室したのであった。

以上は、あくまでテニス小僧であった私が、その後一生をかけるに値する研究テーマと出会うまでの序章に過ぎない。しかし、それほど勉強をまじめにしなかった私が一つだけ正しいことをしたとすると、その時の成績や点数に惑わされずに自分のインスピレーションに従ったことなのかもしれない。進振りに悩んでいる学生さんの中にも当時の私に似たような状況に置かれている方がいると思うが、私の場合は「人生の一大事」が自分の小学生の頃の趣味や父の言葉、ダイレクトメール、いろいろな人との出会い、そして何よりもこれら偶然の連続で決まっていったことを考えると、「悩んでも進路は決まらない」のではないかと最近よく思う。進路を決める上での参考にしていただけたら幸いである。


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