「経済学を学ぶとは」


経済学部 伊藤元重

 大学の四年間に何を学ぶのかということは、その人の一生に大きな影響を及ぼすはずです。政治経済社会の枠組みが大きく変化する中では、将来、人生のいろいろな局面で重要な判断や対応が求められることがあるでしょう。いかなる困難な問題や複雑な課題に直面しても、自分の頭できちっと考え、正しい判断ができるような能力が求められます。その意味では、大学時代に専門科目を学ぶだけでなく、幅広い教養と見識を身につけなくてはいけません。東京大学は、前期二年間でこのようなリベラルアーツの教育を重視しています。リベラルアーツこそ、皆さんの基礎的知力や創造力を育むものと考えているからです。

 前期の二年の教育の目的の一つは、学生の皆さんに社会を見る目を養ってもらうことにあります。学生の皆さんが社会や自分の将来についてより深く考えれば、当然、自分に進路について見方を変えていくことがあるのは自然のことだと思います。高校を出たばかりの時期に持っている社会観や将来への展望が、二年間の駒場時代にまったく変わらないはずはないからです。

 そうした視点から、東京大学の進学振り分け制度の中で、全科類枠などの形で当初予定していた学部とは違った学部へ進学する機会が得られるようにすることは好ましいことだと思います。もちろん、東大に入学した時から目指していた学部に進学する人も多くいるでしょう。ただ、駒場の時代に自分の進路について再度検討してみる機会が得られることはすばらしいことであるのは確かです。

 経済学部は、こうした学部選択の方向転換をしたいと考える人たちに最大限の機会を提供したいと考えています。もちろん、入学時の科類が多くの学生にとっての学部進学の基本であることは間違いありませんが、その上で、制度的に許される範囲で文科二類以外からの経済学部進学の機会を提供しようというのです。経済学は間口の広い学問です。政府が関わる経済政策や国際経済の動きについて分析するような伝統的な経済政策の分野、数学を多用する理論経済学、企業経営について分析する経営学、データを駆使する計量経済学、歴史から経済をみる経済史など、実に多様なアプローチを持っています。当然、他の専門に進もうと考えている皆さんの中にも、経済学を自分の専門にすることを一度は考えてみることをお勧めします。

 たとえば、歴史に関心がある人でも、もし経済史に特に興味を持っているようでしたら、経済学部に来るべきです。経済史は、文化史や政治史とは違う面が多くあります。コンピュータをフル活用してデータ解析をすることに関心がある人なら、金融などの分野のデータ解析に興味を持ってもらえるはずです。数理的な思考が得意な人は、ゲーム理論などで展開されている経済理論を面白いと思うでしょう。また、政治や行政の現場で起きている政策論に関心があれば、実際の政策運営に深く関わっている教授陣が充実している経済学部のカリキュラムから多くのことを吸収できるはずです。世界銀行やIMF(国際通貨基金)などの国際機関で経済関係の仕事をしたいと考えていれば、経済学の専門能力を持っていることが求められます。進学振り分けは、皆さんの将来の進むべき道をもう一度きちっと考える非常によい機会です。この時期に、できるだけ多くの学生の皆さんに経済学について関心を持ってもらえばと願っています。

 東大も含めて、日本の大学の多くは文系と理系に分かれています。数理的な思考が得意な人は理系に、そうでない人は文系に、というような慣行がなんとなく定着しているようです。高校で進学先を決めるときでも、そうした基準で進学先を決めている人が多いようです。しかし、こうした分類は不幸なことだと思います。他の文系の学部のことは知りませんが、経済学部の場合は、数理系の学問が得意な人が実力を発揮する分野もたくさんあるからです。実業界に出ても、学問を続けても、数理的能力を発揮することで活躍することができる分野がたくさんあります。もちろん、経済学は間口の広い学問ですので、数理的能力に自信がない人で、自分にあった学び方ができることは言うまでもありません。

これは私の個人的な意見ですが、私としてはより多くの理系志向の学生に経済学部にきてほしいと考えています。私のゼミ(演習)に参加した学生の中で、理系志向の人の例をいくつか挙げてみましょう。K君は私のゼミで経済学を学びながら、同時に理学部の数学の講義なども聴講していたようです。彼は経済学部を卒業するとハーバード大学の経済の博士課程に進み、今はスタンフォード大学で教鞭をとっています。T君は工学部を卒業してから経済学部に学士入学をして来ましたが、外交官になりたいという気持ちを強くもっており、今は当初の志を貫いて外交官として成功しています。もう一人のK君は理系の科類から経済学部に進学してきました。大学卒業後、財務省でしばらく仕事をしてから再度大学院に入ってきて、今は米国の大学で医学と経済学の中間領域の研究者になるべく博士課程で勉強しています。人々が経済行為を行うときに脳がどのような活動をするのか、というような神経経済学の分野を専攻しているのです。カリフォルニア工科大学に留学している彼が受けている講義の半分は経済学なのですが、残りの半分は医学や生理学などの分野だと言っていました。

 少し理系の学生の話に偏りすぎたかもしれませんが、言いたかったことは、経済学という学問がいろいろな人を受け入れる間口の広さに特徴があるということです。もちろん、旧来からの経済学に進学してくる学生、すなわち経済学や経営学について学びたくて文科二類に入ってくる学生の期待に沿えるようなカリキュラムを整備するように心掛けたいと考えています。経済学部の教育の大きな特徴は、少人数のゼミ(演習)の場でいろいろな議論をたたかわせ、皆でいっしょに考えることにあります。できるだけ多様な学生がこうした議論に参加すれば、それだけゼミの議論の質が上がり、深みが出てくることが期待できるのです。

 話は変わりますが、この二〇年ほどの間に日本の産業構造がどのように変化したかご存じでしょうか。二〇年ほど前であれば、日本のGDP(国内総生産)、すなわち日本のすべての産業活動の中で製造業がしめる割合はおおよそ三〇%でした。しかし、それが今ではおおよそ二〇%まで下がってしまっています。こうした現象をサービス化と呼びますが、これは日本だけの現象ではなく、すべての先進国に共通している動きなのです。製造業が重要ではないと言っているのではありません。もの作りは日本の重要な礎です。ただ、製造業以外の分野も同じように重要であるということを言いたいのです。製造業だけでは社会は成り立たないのです。金融、流通、情報通信、貿易、医療・介護、交通ネットワーク、観光など、サービス的な要素が強い産業の役割がますます重要になっています。製造業でさえ、世界で活躍する自動車やエレクトロニクスの会社の中で、グローバル戦略、財務戦略、マーケッティングなど、経済的な思考をもった人材が多く活躍しています。社会のネットワークが高度化し、グローバルな広がりを持つほど、経済的思考の重要性が増していることは明らかです。世界の多くの国で経済・経営・金融などの分野に多くの若者が関心を持つのは、それなりの理由があるのです。社会の仕組みが複雑かつダイナミックな展開を見せるようになるほど、多くの人に経済リテラシーが求められ、高い経済専門性を持った人が求められるのです。そうした知識や経験のすべてを大学で得られるわけではありませんが、まだ頭の柔軟な若いうちにそうした思考法を学ぶ機会があることを意味のあることだと思います。

 学部の後期の二年間は、自分の専門性を磨くすばらしい機会です。もう二五年以上本郷で教鞭をとっている経験からも、後期二年間の間に驚くべき成長を遂げる学生がたくさんいることを知っています。そうした人たちが今、世界のあちこちで経済発展の支援の最前線や国際交渉の現場で活躍しています。あるいは自分の力で始めたベンチャービジネスを大きくしたり、大学で最先端の研究を行っています。政府や公的金融機関、商社・銀行・保険などビジネスの中堅職員としてがんばっている人もたくさんいます。私自身、自分のゼミを卒業したゼミ生OBと会う機会を時々持っていますが、そうした場で卒業生の活躍の話を聞くのが大きな楽しみになっています。前期課程から後期課程への進学の方向を考えている皆さんの前には、今、大きな可能性の扉が開いて待っています。大学という狭い世界の中だけ見ないで、自分が世の中に飛び出していくときに、どんなことをやってみたいのか、この機会に真剣に考えてもらえることを一人の教員として願っています。