教職をあきらめて

  教育学部 今井 康雄

 

 私の体験談は、今駒場で勉強されている諸君には、実は大して参考にならないかもしれません。私の入った大学(広島大学です)は、入学の時に配属先が学科単位で決まっていて、大学に入ってから専攻についてあれこれ思い迷うという悩みもぜいたくもなかったからです。私が入ったのは教育学部教育学科。将来は中学校か高校の教師になりたいと思っていました。

 教職志望に至ったについては、高校2年のときの「世界史」の授業の影響が大きかったかもしれません。大学を出たてのちょっと変わった面白い先生で、「自分はもう授業するのに疲れたから君たちでやってくれ」などと宣言して生徒に発表させたのです。ありがちなグループ発表ではなく、1人に1時間まるごと任せたというのは今考えるとずいぶん大胆でした。3、4人が志願したと思います。私もそのうちの1人で、「フランス革命」のところを担当することになりました。教科書や受験参考書の知識だけではとうてい1時間もちません。それから1か月くらいは、かなり専門的なものも含め、フランス革命についての本を図書館から借りてずいぶん読みあさりました。桑原武夫編の『フランス革命の研究』を読んだ時の感触−アカデミックな研究とはこういうものか、というような−は今も印象に残っています。張り切ってのぞんだ自分の「授業」がどうだったかは残念ながらよく覚えていません。しかし、教師というのも悪くない、と思うようになったのだからそれなりに満足のいくものだったのでしょう。

 そのとき思ったことは、『フランス革命の研究』のような研究成果を人に伝えることなら自分にもできるしそれは面白い仕事だろう、ということでした。これを裏返せば、そういう研究成果を、生み出すような仕事は自分にはとてもできない、と感じていたということです。私は成績的にも性格的にもあまりパッとしない田舎の高校生でした。本を読んだり人と議論したりすることは好きでしたが、人に抜きんでて独創的であることを要求される(らしい)「研究」というような仕事が自分にできるとはとうてい思えなかったのです。

 で、教職を志望するようになり、大学に入ってからもごく月並みに社会科の教職の単位を取りましたが、昔も今も教職課程の大きなハードルとなるのが教育実習です。私はこのハードルで見事につまずいてしまいました。当時広島大学では原則として全員が附属学校で実習をすることになっていました。ユニークだったのは、中・高校の免許を取る学生にも附属小学校での実習を課していたということです。私の場合、たしか3年生のときに附属中学校で2週間、4年生になってから附属小学校で1週間の実習でした。

 この小学校での1週間に、私は大いに感謝しなければならないでしょう。中学校の先生になるのだから中学校で実習、という型通りの実習で済んでいたら、私は自分が教師としてやっていけると勘違いしていたかもしれません。実際、3年生のときの中学校での実習は、ほとんど徹夜続きの教材研究−実習生はだいたいそうなるわけですが−のおかげで何とか無難に切り抜けることができたのです。ところが小学校ではそうは行きませんでした。小学校5年生のクラスに配属され、研究授業では算数の授業をやりました。徹夜の準備にもかかわらず、私の発問は空振りを繰り返し、実習慣れしているはずの附属の小学生も首をひねるばかりでした。授業後の検討会では、担任の先生から、「あんな授業では子供たちがかわいそうです」とまで言われてしまいました。まだまだ修行が足りなかった。そう考えることもできたでしょうが、そのときの私の受け取り方は違っていました。化けの皮が剥がれたと思ったのです。中学校での実習でも薄々感じていたことではありましたが、どうも私は教師に向かないらしい。その事実をつきつけられたと思いました。

 通り抜けられると思っていた道の先に絶壁が出現したような気分でした。私はその絶壁を避けて大学院という別の道に進みました。そして、自分の本好き・議論好きをわずかな手がかりにして「研究」という別の岩山を登り始めました。ところがいつのころからか、今よじ登っているのが実は以前自分が回避したのと同じ岩山だということに私は気づくようになったのです。もちろんこれは、専攻したのが教育学であり教育が研究対象だということを考えれば理の当然ではあります。しかし今ここで言いたいのはそういうことではありません。

 先ほど私は、研究成果を伝えることなら自分にもできると思っていた、と申しました。何かを探究することは創造的な営みだが教えることは再生産的な営みだと思っていたのです。これはごく常識的な見方かもしれません(微分法が見いだされるためにはニュートンやライプニッツの天才を必要としたけれども、今ではそれを学校で普通の高校生が教わるわけです)。しかし、「教育」という岩山を登るうちに、私はどうもこの常識は怪しいと思うようになりました。たしかに、教育はすでに知られている何かを伝えるということに立脚しているかもしれない。しかしこの伝えるということ自体が、創造的な架橋を不断に必要とするような断絶を含んでいるのではないか。そして、教えること「なら」自分にもできるなどと見下していた私が足をとられたのもこの断絶だったのではないか。そう思うようになったのです。

 「善悪のケジメをきちんと教えるべきだ」というような言い回しを聞くと私は不思議な気持ちになります。「べきだ」ということと実際に「教える」ということの間の遠近法がそこには欠けているからです。高校の教師をしている友人から次のような話を聞いたことがあります。彼の担任していた生徒がちょっとした不始末をしでかしました。厳密にとれば停学処分になりかねない事件だったのですが、初めてのことでもあり、生徒も「十分に反省します」と訴えるので、先生方は「しっかり反省するように」と言い含めて帰したのです。ところがその生徒は翌日さっそく学校に遅刻してきました。そのうち、授業態度がよくない、宿題を忘れてきた、というようなことが職員室の話題になる。他の生徒に聞くと、以前と同じように友達と遊び歩いているらしい。「ちっとも反省してないじゃないか」と先生たちは色めき立ちました。呼び出して問いつめたところ、その生徒は悪びれる風もなく、自分は自分のやったことを顧みて二度とやるまいと何度も自分に言い聞かせている、これは宿題や遅刻の問題とは無関係である、友達と遊ぶことが反省の妨げになるとは思わない、という意味のことを述べたのだそうです。

 これは、「教える」ことの根幹に触れる興味深い事例だと思います。われわれはこの生徒に「反省する」とはどういうことかを教えることができるでしょうか。普通われわれが「反省する」というときに意味しているのは、自分の行いを振り返る、というような辞書的な意味にとどまらず、先生の前では畏まった顔をする、真面目に勉強する(ことを少なくとも装う)、遊興は多少自粛する、等々の一連の行動とその背後に想定される心持ちを含んでのことでしょう。「反省する」に対応する行動は有限個ではありませんから一つ一つ数え上げても無駄です。友達と遊び歩いているようでは反省したことにならない、と教えたとすると、「分りました」と言ってその生徒は一人でゲームセンターに行くかもしれません。逆に、反省するとは遊びに繰り出さないことである、と思ってもらっても困るでしょう。要するに、「反省する」のようなごく単純な事態でさえ、われわれは単純に告げたり命令したりすることによってはその意味内容を伝えることができないのです。にもかかわらず、上の生徒と違って、ここにいるわれわれの多くは、「反省する」とはおおよそどういうことか分っている。不思議と言えば不思議なことではないでしょうか。

 われわれは普通、何かを告げたり命令したりすることによってその何かを教えたつもりになっています。教育は無効な行為(告げること・命令すること)によって有効な結果(伝えること)をもたらしている、ということなのでしょうか。思うに、この二つ−教育において人がなしていると思っていることと実際になしていること−の間には大きな断絶があり、この断絶を埋めているのが「教育」というメカニズムなのです。教育については実に多くのことが語られていますが、肝心のこのメカニズムは、近年で言えばフーコーやルーマン、遡ればニーチェ、ベンヤミン、ウィトゲンシュタインのように、そこに目を向けた人はいるものの、依然としてほとんど未解明のままです。あまりに身近で分りきったように見える「教育」の真っただ中に、私にとっての大きな謎が、研究のフロンティアがあるのです。そしてこの謎の存在を、そのときには訳の分からぬままに指し示してくれたのが小学校での一週間だったと思っています。


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