手もとにある『教養学部報縮刷版』をぱらぱらとめくっていたら、昭和40年9月15日現在の「進学志望集計表」が目にとまりました。ぼくが理科二類2年生の時のものです。現在は進学情報センターで皆さんの進学相談にのっていますが、自分自身はどんな気持ちで進学振分けに臨んでいたのか思い出してみたくなりました。40年前の進学志望状況をちょっと見てみましょう。

 まず気が付くのは志望集計表に最低点の記載がないことです。志望者数が定数を超える人気学科を志望した場合は大いに不安だったことでしょう。文学部は4つの類のどれかを選択する方式、3類(語学文学)は人気があります。当時は文学が文科三類の学生を強く引き付けていたようです。薬学部が薬学と製薬に分かれていたこと、医学部には理科三類からしか進学できなかったこと、文科生は工学部への進学のチャンスがなかったことなど現在と違っている点がいくつかあります。ぼくは創設間もない基礎科学科を第一志望にしました。志望理由は数学から生物学まで幅広く学べること、それになんだかよく分からないけれど面白そうだなと新しもの好きの気分が働いたように思います。理科二類からの定数は20名、志望者は32名。秋休みが終わり不安な気持ちで進学内定者発表をのぞき、第一志望に内定しているのを見つけほっとしたことを記憶しています。志望届には第二・第三志望も書いたはずですが、今となってはどの学科を記入したのか全く思い出せません。

 教育学部の南風原朝和先生に今年度のシンポジウム「私はどのような大学時代を送ったか」でお話しくださった内容を文章にしていただきました。先生は「国費沖縄学生制度」により東京工業大学に入学されますがすぐに退学、いったん沖縄に帰り翌年東京大学に改めて入学されます。何故でしょう、「心理学に惹かれて統計学に出会う」ぜひ読んでください。(里見大作)


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