自分探しの旅−終着駅はサルだった−

                        総合文化研究科・教授・長谷川壽一

 私が東京大学に入学したのは、1972年(昭和47年)4月、LL2Eという中国語クラスだった。歴史的な(といっても今の学部生諸君にはぴんとこないだろう)ニクソン訪中が同年2月、入試(当時は3月上旬)直前にあったことも中国語クラスを選択した要因の一つだった。

 なぜ文3を進路として選んだかは、当然ながら、当時の時代が大きく影響している。1960年代後半の中高時代は、ビートルズの最盛期であると同時に、ヴェトナム戦争の時代と重なり、将来学ぶはずの大学は紛争のまっただ中で、デモ、団交、バリスト(解ります?)、火炎瓶の嵐で、大学解体という言葉が舞っていた。当時、私が通っていた東京学芸大学附属高校は、都内でももっとも高校紛争が激しい学校の一つで、校長や教頭のつるし上げが繰り返され、校長室が占拠され、機動隊が入ったのち、しばらく授業休止期間が続いた。私自身は、闘争の前線に立っていたわけではないが、少し後ろから自信を失ってうなだれた大人たち(教師や父兄)の振る舞いを見つめていた。権威の偽善ともろさに対するやり切れない気持ちから、多くの学友と同じく空しい日々を送り、ばら色の未来のかけらもなく街を徘徊した。

 勉強する意味が見つからないのだから、成績はみるみる下がり、そのかわり小説と映画と哲学書へと傾倒していった。カミュ、カフカ、サルトル、ドストエフスキー、ヘミングウェー、お決まりとはいえ、今振り返れば、得難い通過儀礼を経たものだ。さて、困ったのは大学の進路である。私の実家は寺(それも長男)なのだが、当時の状況では親と対立することが正義だったし、おまけに信仰心が湧かない不肖の息子だった。なんとか一刻も早く家を出ねばならないし、近い将来、自活もしなければいけない。かといって、普通の勤め人は絶対に無理だ。文学や歴史は好きだが、一生の職ではないだろう。数学や生き物は嫌いではない。親の面子も少しは立てねば。……答え、地方の医学部。というわけで7割ぐらい勝算のある地方の国立大医学部を選んで2校受けたのだが、不合格(なにせ勉強不足ですから)。

 1971年3月、作戦の立て直しである。駿台の理系クラスにとどまるか、文系に変えるか、ここが分水嶺だ。結局、二浪はしたくないという現実的な制約条件もあり、そのころ読んだ何冊かの本に導かれて文3を目指すことにした。できれば研究職を目指したいと願った。

 それらの本とは、泉靖一、石田英一郎といった東大の文化人類学、民俗学の先生方が書かれたフィールドワークの書、井上靖の西域小説などで、心は急速にアジアやアフリカの辺境世界に引き込まれていった。前述のように時代は反米、親アジアだったし、とにかく自分の知らない遠くの世界に出かけたい、彼の地をこの目で見てみたいという気持ちに従った。元理系なので点数は数学で稼げたから、二度目の入試は落ちる気がしなかった。無事、合格し、その時点では、大学で学べることに素直に期待がもてた。合格直後の3月は読書に没頭した至福の時だった記憶がある。

 しかし、そこは元不良文学青年もどきの駒場生だったこともあり、1年生の夏学期は授業にあまり熱が入らなかった。今ではさすがに絶滅してしまったが、当時の駒場の一般教養の教官の中には、900番教室で黄ばんだノート(当然、内容は毎年同じ)を板書もせずに座ったままひたすらゆっくりと読み上げる先生や、一学期に3回しか教室に出て来ない語学の先生(あとでさすがに問題になったらしい)が教壇に立っていたりした。あまり告白したくないのだが、退屈な講義のときには、階段教室の一番うしろでタバコをくゆらせていたことさえある。が、教師は注意すらしなかったし、中には自分も吸いながら教える先生も何人かいた。タバコ代をかせぎたいためにパチンコ屋にいりびたり、タバコが手に入ればジャズ喫茶(ああ、またエンジンが止まりそうだ)。けれどもすべての授業を切り捨てていたわけではない。井上忠夫先生のギリシア哲学、大関先生の発生と進化の生物学は欠かさず出たし、なによりくぎ付けになったのが寺田和夫先生の人類学だった。

 寺田先生は理学部の人類学のご出身だったから、霊長類から始まって人類進化の話しを中心に講義された。いかにも博学で、流ちょうでやや皮肉交じりの語り口は、私がイメージした東大の教師像にぴったり重なった。なにより、話しの内容が、私が求めていた知識そのものであり、文化人類学へのあこがれは、さらに生物側へとシフトして、生物としてのヒトという見方へと集中していった。医者への道を志していた、かつての自分とも折り合いがつきそうだ。自分が求めていたのは人間についての科学的研究だったのか、理系と文系の間に、チャレンジしがいのある大きな学問領域があるのだなと納得した。

 1年生の頃の日本は、列島改造で経済成長真っ只中だったが、大学2年生の73年には突然オイルショックに襲われ、狂乱物価が吹き荒れ、マイナス成長を経験した。60年代からの理不尽な戦争、70年代の経済繁栄と脆弱さ、そして刻々せまる環境問題、と現代社会は右往左往している。その中で人々は、悩み、苦しみ、喜びを繰り返す。大富豪や悪徳武器商人もいれば、人権の与えられない多くの人々も暮している。そのような人間を理解するためには、何か基本軸がなければ流されるばかりだ、と思っていたところで見つけたのが、人間はしょせん一介のサルにすぎないという見方だったのだ。この答えは、青年期固有の自分探しの逃避の場であったかもしれない。が、人間を知るためにはサルを知らねばならないと思って選んだ相手は、ただ者ではなかった。

 時間を少し戻すと、寺田先生の所属する教養学部教養学科文化人類学分科(現超域文化学科)は当時も進学振り分けの点数が高く、パチンコ通いもたたって、あと1,2点のところで進学できなかった(あのまま進学していたらアンデスで黄金マスクの発掘に夢中になっていただろう)。そこで、文系からサルの研究ができそうな文学部の心理学専修(当時の4類)に進学した。私の進学理由は、臨床心理学でも知覚心理学でもなく、サルの行動研究ができるところということだったので、動物心理学以外の心理学にはあまり興味が湧かなかった。進学先の法文2号館の屋上には、ニホンザルが飼育されており、感激の対面もしたのだが、ここでも何かがひっかかった。大秀才と評判の助教授は、このサルを使っていろいろな実験ができるはずだとアドバイスしてくれたが、私には囚人サルとしか映らなかったのだ。

 一方、当時のガールフレンド(今のワイフ)が進学した理学部の人類学教室にはなんと野生のチンパンジーを研究している助手(現京大名誉教授)の方がいて、自ずとそちらの研究室の方にいる時間が長くなった?彼女もいることだし当然ですね<笑>。その研究室の博士課程の先輩(東大闘争の指導者の一人で1年間の刑務所暮らしから戻ってきたばかりで、院生室で生活していた)に誘われて、房総丘陵に野生のニホンザルを見に行ったのだが、樹上のサルは、哀れな文学部のサルとはしぐさも毛の艶もまったく違っていた。大げさでなく光を背に受けて輝いて見えたものだ。

 かくして3年生の夏休みから、ニホンザルを追いかけるフィールドワークが始まった。そこには、親子の愛情、けんかと仲直り、つかの間の恋愛、老齢個体の死など、人間社会と重なるような出来事が次々と起こり、振り返って人間社会をみれば、なんだ、人間だってやっぱりサルじゃん、とうなずいた。

 卒業研究と修士研究をニホンザルと共にすごし、博士課程の時にアフリカに渡った。野生チンパンジーの調査と、チンパンジーを含む自然を保護するための国立公園作りの仕事である。大学院を一時、休学してODAという形で、タンザニア政府のために働いた。チンパンジーは愛くるしいニホンザルとは違って、深いまなざしの持ち主だった。彼らを追跡して観察するのだが、いつも自分の方が見られている錯覚に襲われた。彼らは多くの特性を人間と共有し、実際、遺伝学的にはチンパンジーとヒトの関係は、チンパンジーとゴリラの関係よりも近い。しかし、600万年前に二つのグループが分かれたあと、チンパンジーのグループは大型類人猿にとどまり、人類の枝だけが特異的な進化を遂げた。この違いはどこにあるのだろうか。

 ヒトは確かに一介の類人猿に過ぎないのだが、きわめてユニークな類人猿である。人間らしさがいつ、なぜ、どのように生まれ、その後、長い時間をかけてどのように変わっていったのか。現在の私のテーマは、思い起こせば駒場時代の寺田先生に頂いたようなものである。30年前とは、学問の理論も手法も変わり、いまや自分が指導する側に立ってしまったが、私の問題意識の原点は駒場時代から変わらない。


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