研究で人生を考える

教育学研究科 教授 土方苑子

 本稿のもとになった駒場のシンポジウムでの講演者は全員東大の教員で、その場では進路選択は学問分野の選択と同義語であった。どこに進学するか、という選択に限られていたといえよう。しかし、同じ東大の教員でも女性である私の場合、分野の選択と職業の選択は密接に結びつき、選択を持続することが大きな問題であり続けた。2年生で学部を決めたとき職業として選んだのではなかったが、結局両者は深く結びついたものだった。

 私が大学生だったのは35年以上も前になるが、その頃は女性が仕事をもつことは珍しく、女性の社会的役割への常識は現在とは大きく異なっていた。女性は結婚して、夫の職業や地位で自己実現すべきであり、夫の補助以外の独立した職業をもつことは寧ろ例外的なことであった。だから私も大学入学までに受けた教育において、職業選択を迫られたことは皆無であった。なぜ受験勉強をしなければならないのかと悩んでも、考える手段をもたないためにぐるぐる廻りで、専攻分野もいい加減にしか決めることが出来なかった。社会に対して著しく無関心のまま大学に入学し、大学を出た後の職業についてもまるでイメージが描けなかった。高校時代から弁護士や研究者などの職業を考えて入学してきた女性もいたけれども、少数だったと思う。

 そういう状態で大学に入学したため、入学後は強い不安と劣等感にとらわれることになった。男性が圧倒的ななかで、自分は何も知らない、特別出来ることが何もない、ということを強く感じざるを得なかった。私の入学した頃の駒場は学生運動が盛んで、今は無き学寮前の広場では絶えずアジ演説がおこなわれ、立看が立ち並び、教室にはビラがあふれていた。授業の後、教師と入れ替わりに入ってきた学生の演説をそのまま聞く羽目になることも時々あった。社会について知らない、歴史について知らない、要するに何も知らない、と強い衝撃をうけ、大変不安定な精神状態が続いた。自分のできることから進めていこうと本を読み始めたが、そのなかで歴史的に考えるということが一番自分にはわかりやすく、魅力的だった。もっと歴史を学びたいと考えて、教育史に進学を決めた。駒場で得たことは、社会的な階層、職業、生育によって、人間は異なってくる、自分をもっと外側から見たいと言うことだった。社会と関わりながら生きなければならない、とも考えた。歴史の中で自分をとらえることを続けたいというのは最初の大きな選択だった。だが、まだ職業と結びつけて考えてはいなかった。

 職業について切実に考えざるを得ない羽目になったのは、何事も遅れがちな私の場合、4年の夏頃である。現在と違って女子学生は企業に入ることは余りなく、また企業からの勧誘など一切無かった。女子は男子の就職がきまったあと、3月の卒業を目前にして1月頃から就職探しをしていたように思う。はっきりした目標をもった女子学生は、女性も平等に働ける公務員、教員などの試験受けていた。私は4年になって教育実習や五月祭のために豊島区の教師に話を聞きに行ったりする中で、歴史学だけでなくようやく「教育」にも関心を深めていった。そのような状態で卒論として女性史をやることになり、女性史に関する本をたくさん読むことになった。それらは私のそれまでの不安・劣等感などの悩みに対し大きな解決を与えるものとなった。折角東大にはいったのに少しも晴れることのない不安・劣等感は、女性が社会的に自分を考えることを妨げてきた社会の状態、自分の受けた教育の影響が大きいと悟ったのである。4年生の夏頃だったが、もっと勉強したい、と思いこれが次の大きな選択となった。

 私の数年前後には大学院入試の面接で教員から色々言われた人が少なくない。女性が大学院に来てどうするんだ、というのである。私の場合は就職はありませんよ、と言われた。修士の1年目の終わりに医学部の処分事件がおきた。その後の東大闘争によって、教育学研究科の院生のなかはすっかり様子が変わった。私は3年目に修士論文を出し、学問は自分でやろうという姿勢を友人達と共有した。博士課程の時期もまだ進路は決定出来ていなかった。大学院に入ってから週2日中高一貫校の非常勤をして教員の道を追求する一方、大学外の研究会などで研鑽しつつ院生生活を送った。ずっと迷い続けたが、結局中高の教員として自分は適さないと思うようになり、就職できない可能性の高い、研究者へとシフトしていった。この間結婚して、子どもが生まれ、生後6週間からの無認可保育園へ預けて大学院生活をしていた。物好きにも小さな子どもを預けて自分は勉強しているという周囲の目がひしひしと感じられることがあった。保育所相談の窓口である福祉事務所では、責められて何度も泣きたいような思いをした。大学の教員が女性が大学院に来ることが理解できないのだから、仕方のないことである。けれどもそうして子どもにも痛みを分け持ってもらっていることにより、いい加減な時間の使い方はできない、と思うようになり、モノトリアム的な気持ちもあって進学した私を真剣にしていったのだと思う。

 大学院後の初職は研究所員であった。そこでは70名以上の研究員のうち、女性は基本的に2名という状態が私が就職した後も長く続いた。ここでは研究員ではなく補助研究員という職に、大学院を経ていないたくさんの女性が就いており、この人たちが何年たっても研究員へ昇進できないという問題を抱えていた。そこへ若い女性研究員としてはいったのだから立場は微妙で、心ならずも何かと居心地の悪いことが起きた。結局大学院を出た女性の採用は私の後数年後に一人あったあと10年くらい無く、日本は少しも進歩しないなあ、と思い始めた頃急激に増え始め、現在は多分10人近くになったように思う。私はそこに20年勤めさせていただいたが、ちょうどその頃から東大にも女性教員が増え始め、私も移動して現在に至っている。大学に戻って一番印象深かったのは、女子学生、女子院生の多さであった。

 このように振り返ってみると、私の場合は自分で明確な職業イメージがあって、研究者となったのではなく、その時その時の選択の積み重ねが現在へと続いている。高校までに受けた教育の大きな問題点である、女性に社会性を与えないという問題をずっと背負ってきたのであろう。特に子育て中は子育てがうまくいった場合にのみ職業も許されるという気持ちがあり、緊張して薄氷を踏む思いであった。だが逆に本来ボウッと生きてきた私が現在のように職に就き続けられるのは、家族を初め多くの人に助けられているので、その分自分も頑張らなくてはという思いがあって、無い力を振り絞ってきたためだと思う。教育史という学問もまた私には有利であった。子育て、共働きなどの経験が、教育史研究のどこかに生きている、と思えたからである。このように私の場合進路選択は長期間・継続的なものであり、研究する条件を作れたために進路選択も生きることとなった、ということだと思う。

 教育学は私のように歴史的な研究をしているものにとってさえ、どこか自分の形成史と重なるところがあり、研究をするなかで自分の発見がある。教育という自分を形成してきた分野、そして現在も社会で重要な意味をもつ領域に自分の学問が関与していることを自覚できる。その意味でやりがいのある分野だと思う。

 歴史学という面でも自分とは合っていた。歴史学には史料がつきものであり、どうしても史料のあるところへ出かけていく旅行が必要になる。博士課程で出産した為、長い間調査旅行が自由にできないという飢餓感を持ち続けてきた。しかし事実として、その「難しい」時期にアメリカへ長期出張し、また長野県の調査で学位を得たのだから、実際は相当旅をしていたのだろう。現在は旧東京市の教育を研究対象としており、東大出版会から『東京の近代小学校』という本を数年前に出していただいた。その後も小学校調査を継続しているが、東京という近場でも史料調査の面白さは味わえる。調査旅行にはしばしば同行者があるのだが、その仲間との行動のおもしろさ、史料探しの過程での推理や史料が物語るもののおもしろさ、調査先の方との交流、そしてその土地の食べ物、飲み物。さらに史料を読んでストーリーを紡いでいくことはかなり辛いが深い楽しみでもある。これら研究の面白さが一体となって、研究生活は続けられたと思う。先に何が起こるかわからないが、できること、やりたいことを継続しようとするなかで道は開けて来た。私にとってはこのような継続する過程が進路選択ではなかったかと思うのである。

 


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