私はどのようにして専門分野を決めたか

−天から地へ、モノからヒトへ−

経済学研究科 松井彰彦

 みなさん、こんにちは。経済学部の松井です。ゲーム理論という分野を専門にしています。今日は「私はどのようにして専門分野を決めたか」というごく個人的な体験をみなさんにお話するために駒場にやってまいりました。わたしの場合、大きな転機は駒場時代、本郷時代、そして大学院時代に訪れたのでその辺りのことをお話したいと思います。

 まず駒場時代。わたしは進学振り分けに関心のある多くのみなさんと同じようにいろいろ迷った末経済学部に進学いたしました。と申しますのはわたしはもともと理科一類に入学したため、進学振り分けと向き合わざるを得ない立場にいたからでした。

 小学生のころからずっと天文学を研究するつもりで理科一類に入学したのですが、その想いは入学していろいろな仲間と話すにつれて段々と変わってまいりました。今は取り壊されてしまったのですが、当時、と言っても二十年くらい前には駒場寮という寮が生協の真向かいに建っていて、友だちがそこにいたものですから、講義をさぼっては青くさい話をしていたような気がします。

 自然と興味の幅が広がっていって何をやりたいのか、悩みはじめたのがちょうどみなさんと同じころでした。高校までは与えられた問題を解くということに集中していたのが、大学では問題を探すというふうに変わってきたわけで、こうなるとどの学問分野も魅力的に思えてきて、収拾がつかなくなります。実際、ほとんどすべての学部に興味が出てきて、自分は何をやりたいのか、どこに行けば自分を生かせるか、あれこれ悩んでしまいました。

 しかし、多くの理科一類の方が進学する工学部はすぐ選択肢から消えました。というのは、不器用なせいで製図の時間にまともに線が引けなかったからです。言葉と最も真摯に向き合う文学部も国語が苦手なくせに英語もろくに話せないわたしの選択肢から早々に姿を消しました。

 こんな話ばかりだと、あまりに後ろ向きなやつと思われてしまいますので、もう少しきちんとした理由をお話しましょう。わたしが学生のころも今と同じように環境問題が議論されており、わたしもそれに関心を持ちました。環境問題を解決するにはエコシステムを考えるシステム専攻のようなところがいいか、などということも考えたりしたものです。

 そのころの環境問題よりもみなさんにとって身近な地球温暖化とそれに対する解決策を論じ合った京都議定書のことを少し見てみましょう。この京都議定書は、先進国と開発途上国が協力して地球温暖化に取り組む枠組みを作ろうというものでした。ところが、結果的に世界のエネルギー量の約1/4を消費している超大国である米国がこの議定書にそっぽを向いてしまいます。なぜか。この議定書は先進国に二酸化炭素等の削減目標を割り当てる一方、途上国には成長を阻害するとの意見から割り当てなし、努力目標のみという内容となったことはみなさんもご存知だと思います。この先進国経済にのみ負担を押し付けるというやり方に米国が猛反発。結局、議定書離脱という残念な結果になってしまったのです。

 もうおわかりでしょう。環境問題は単に技術的な問題だけで解決できるものではない。その解決にあたって経済への配慮が決定的に重要になってくるのです。環境問題に限らず、そうやって物事が決まっていく世の中のしくみを知りたい。それが経済学部進学の大きな動機でした。

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 さて、そうして進学した経済学部でしたが、進学当初から経済学者になろうと思っていたわけではありません。実は3年生のころは官僚になろうと思っていました。それも通商産業省(現経済産業省)に入ろうと求められもしないのに勝手に考えておりました。環境問題に関心があるのなら環境庁(現環境省)を志望すればいいのに、やはり環境問題を考えるのなら産業界と結びついている通産省のほうがいいと思い込んでいたわけです。

 そして、そろそろ進路を決めるというときになってまた迷いはじめました。優柔不断なのかもしれません。わたしが勉強していた近代経済学は数学的にきれいな体系を持っていますが、どうもよくわからないところが多かったんですね。さらに、駒場時代に青くさい話をした連中とは本郷でも勉強会を続けていて、「(主流派の)経済学には愛がない」と言われて、「言うのは簡単だよ」と言い返しつつも、主流の経済学者に認められなければ意味がない、でも、その中に埋もれたくはない、と大それたことを考えはじめたような気がします。

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 大学院でもわたしの迷いは続きます。市場理論というモノの分け方の分析をその骨格とする近代経済学ではなく、当時まだ分野的には勃興したてだった、ヒトとヒトの関係を読み解こうとするゲーム理論に惹かれたのが大学院1年次のころでした。なぜゲーム理論に惹かれたかというと、やはりよくわからなかったんですね。ゲーム理論の一番基礎の概念にナッシュ均衡(ノーベル賞をとって映画『ビューティフル・マインド』の主人公としても描かれたナッシュの解概念)というものがあるんですが、これがどうもわからない。例えば、男性と女性がいて、相手のことを知ろうとしている。お互いに相手を読みきったときにとる行動がナッシュ均衡というわけなのですが、うーむ、今ひとつ釈然としない。このような状況を分析することがいかに難しいかということをちょっとだけ考えてみましょう。

 例えば天気予報という問題を考えてみます。これは明日なら明日の天気を読むということです。これ自体とても複雑で難解な問題であることは天気予報がよく外れることを見てもわかるでしょう。しかし、科学が進んでいけば読み方の精度は増してくる。その意味で発展が単線的なわけです。

 つぎに人間関係を考えてみます。男性が女性の考えを読もうとする。そこまでは天気を読むのと同じです。しかし、相手は人間です。となれば、女性のほうも男性の考えを読もうとしている可能性があります。すると、男性が女性のことをよく読むためには、彼女が自分のことをどう考えているかということを考えなくてはなりません。でも、やはり女性も同じですね。女性のほうも彼が彼女のことをどう考えているかを読もうとする。となると、男性が女性の考えを読みきるためには、「『彼が彼女のことをどう考えているか』ということを彼女がどう読んでいるか」ということを読まないといけない。もうおわかりでしょう。論理的にはこの相手を読むという行為はぐるぐるとサイクルを起こして無限に回り続けることになります。読めば読むほど精度が高くなる他の学問とは何という違いでしょう。このゲーム理論が扱う対象である人間関係のわけのわからないところに惹かれたといっても過言ではありません。

 さらに言えば、このゲーム理論がモノに傾斜した経済学とうまく接合しつつもそれを大きく変えていく力を秘めているのではないかと漠然と感じたところも大きかったと思います。

 こうやって改めてあのころの自分を振り返ってみると、様々な想いが形を変えつつも今も自分の中に流れていて、研究の原動力になっているような気がします。ただ変ったことと言えば、先端で世界をリードしている主流の経済学者たちも大きな情熱を持って新しい道を開拓しようとしている、ということに気づいたことでしょうか。そんなかれらと同じように青くさい情熱を持ちつづけていられるのもあのころ精一杯悩んだせいなのかもしれません。

《経済学でどのような能力が大切かという質問に答えて》

 経済学は非常に間口の広い学問分野です。資料を丹念に調べる経済史のような分野もあれば、実務に直結して政策提言を行うような分野もあります。ですから一般化は避けるべきですが、経済学には、「比べる」と「まとめる」という二つのキーワードがあると思います。「比べる」ということですが、近代経済学は費用対効果、一つの選択肢対別の選択肢、というようにつねに比べながら物事を考えていくことを原理原則としています。そして、「まとめる」。ケインズという経済学者が言ったことを紹介しましょう。経済学をやるのに数学者ほど数学の能力が必要とされるわけではないし、文学者ほど言語能力に長けている必要もない。哲学者ほど深く考える能力もいらない。しかし、それでも有能な経済学者が少ないのはなぜか。それは経済学に必要な能力が数学、言語的能力、哲学といった能力を駆使して一つの問題解決のために考えをまとめていく能力であるからだと。わたしについて言えば、数学、言語能力、哲学、どれをとってもまともな研究者になる資質は持ち合わせていなかったと思います。そのわたしが選んだ専門、それはどの科目にも惹かれながら、どれをとっても中途半端だったわたしに残された唯一の選択肢だったような気がしています。(平成16年4月23日の講演に加筆修正を施しました)


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