人との出会いの大切さ

                    薬学系研究科・教授・福山 透

 
 進学情報センターの里見先生から「私はどのようにして専門分野を決めたか」についての執筆依頼があった時私は大いに戸惑った。私は東京大学の卒業生ではないし、少々変わった経歴の持ち主なので、教養学部生の進路決定に役立つようなストーリーにはならないと思ったからだ。しかし、日本に帰国して8年半、このような依頼に「ノー」というオプションがないことは学習済みであり、自分の人生を振り返る良い機会であると前向きに解釈することにした。

 私の専門は有機合成化学という有機化学の一部門である。抗がん作用や抗ウィルス作用など医薬的に興味深い活性があり、構造的にも複雑な有機化合物を如何に独創的且つ効率良く合成するかというのがメインテーマで、謂わば三次元の分子の設計から施工にかかわる建築家である。小学生の頃、「将来は建築家になりたい」と、たき火にあたりながら親父に言った事を覚えている。しかし、これは多分に画家であった親父に自分は創造的な仕事をしていくのだと喜んでもらいたかったからだ。私には建築家にとっても重要な画才が無い事は以前から自覚していた。

 ひょっとしたら私は化学に才能があるのではないか?と思い始めたのは中学の理科実験の時であった。愛知県の安城市といって、昔は教科書にも「日本のデンマーク」と書かれていた所に生まれ育った私は、隣接する岡崎の中学校に通っていた。そこで、深津先生という意欲的な理科の先生に、今では何をやったのか定かではないが、実験中に「福山、うまいなー!」と、何度も褒められた。生来自惚れの強い私という豚は、ここで完全に木に上ってしまった。学生の教育上褒めることが重要である事を体験したわけであるが、残念ながら臍曲りの私は自分の研究室でこれを実践できないでいる。

 「化学好き?」になった私は、しかし岡崎高校に進学して落胆した。今はどうか知らないが、当時は文系の生徒は化学実験をさせてもらえるのに、理系は大学に行けばやれるから、ということで実験の時間が皆無だったからだ。実験をやらない化学なんて何が面白いものかと不貞腐れてはいたが、中学の時にすり込まれた「化学的才能の持ち主」という自覚は持ち続けた。その頃化学に関する本を読んでいて、高分子化学つまりポリマーが面白そうだと思った。化学を使って世に役立つものを作るということが非常に分かりやすかったからだ。私の限りある調査能力でさらに調べていくと京大工学部の高分子化学科でポリマーの研究が盛んであると分かり、高2の夏頃京大を受験しようと決めた。

 私が高校生の頃まで、近所に名古屋大学の農学部があった。毎週木曜の夜に何人かの先生が絵を描きに私の家に来て、その後は批評会などといって酒盛りになるのが常であった。高分子化学をやろうと決めてはいたが、「ひょっとしたら自分が考えているほど面白くないのでは?」と思い始めていた私は、ある日、すでに酩酊状態にあった農薬化学教授の宗像先生にどのような研究をされているのか尋ねてみた。先生はニコニコしながら、稲の害虫となる蛾のメスから発散される有機化合物によって何キロも離れた所からオスが誘引されてくるという、昆虫フェロモンの話を構造式も書きながら聞かせて下さった。私は宗像先生の話にすっかり魅了され、その場で「先生、弟子にして下さい!」と、自分で勝手に名大農学部を受験する事にしてしまった。今から思えば随分単純な高校生だったが、将来宗像先生の跡取りになるのだと自分では本気でそう思っていた。そうと決まればということで、3年夏の地区予選で野球部が敗退したあと応援部を退部し、その足で1年の時から入りたかった弓道部に「雑巾掛けからやるから」と無理を言って入部させてもらった。

 入試直前まで弓道修業に励み、名大に入ってからも弓道部に入部したが、大学で一所懸命勉強しようと思っていたので部活に大きく時間を割く事は本意でなかった。そこで1年の夏の合宿で皆と同じ釜の飯を食べる前にやめなければと思い退部届を出した。弓道修業はその後も安城の町道場で続け、アメリカ在住の22年間は中断していたが、帰国後に再開して現在に至っている。それはともかく、教養部の頃から宗像先生のオフィスには度々お邪魔して色々なお話を聞かせてもらった。「有機化学は大事だからしっかり勉強するように」と、何度も先生に言われたことを思い出す。将来はドイツに留学しようと勝手に思いを巡らし、丸善で200ページ余りのドイツ語で書かれた有機化学の教科書を買って辞書を引き引き読破したのもこの頃である。

 1969年4月、農学部農芸化学科に進級し日々学生実験が出来る楽しさを味わう事が出来た。いよいよ講座配属の日が近づいてきたが、農薬化学教室は5人の定員のところ8人の希望者がいて、どのように決めるのか話し合いがこじれていた。そうこうしていたある日、生物有機化学教室の岸助教授(2001年文化功労者)が学生実験室にスタスタと入ってこられ私の前に立った。そしていきなり「僕のところに来たら君の将来はこのようになるよ!」と、バラ色の未来について語り始めたのだ。当時アメリカ留学から帰ってこられて1年足らずの岸先生は講義を担当されていなかったので、面識が無いのも同然であった。いきなり天から降ってきた話で面食らってしまい細かい事は覚えていないが、こんな自信過剰な人は今まで見た事が無いという強烈な印象は今でも残っている。ここで私は本当に迷ってしまった。名大に来たのは宗像先生の弟子になるためだったが、しかし岸先生の強烈な個性と魅力は私には無いもので、それに強く引かれたのも事実である。散々迷った末に宗像先生のオフィスに行き、岸先生の下で卒業研究をすることに決めたことを告げたところ、先生は「岸先生は若くて非常に優秀な方だからしっかり頑張るようにね」と、やさしく励まして下さった。

 ここまででお分かりのように、専門分野の決まり方というのは100人100通りで、私の場合は青天の霹靂的に人生の大きな転機がやって来たわけである。卒研が始まってしばらくして、岸先生がいきなり「もうこんなテーマはやめにしてフグ毒テトロドトキシンの全合成チームに入るように」と言われた。このプロジェクトは当時世界最先端の研究で、30年以上経った現在でも有機合成化学上最難関の一つと見なされている。それからの私の生活は一変した。自宅から研究室まで片道1時間10分かかったので、その時間を惜しんで月、水、金は研究室に泊まるようになった。当時岸先生は朝9時に研究室に来られ夕食抜きで夜の12時まで仕事をされていた。帰宅少し前にこれから何をやるべきかの指示をされるのだが、いつも「あまり無理をするな」と言っては帰られた。しかし、指示された実験をやっていて何度朝日を拝んだ事か。倉庫の床に発泡スチロールの板を敷き、その上で寝袋にくるまって4時間ほど眠るのが常であった。起床後は直接実験室に行って顔を洗い、朝食抜きで実験を再開した。火、木、土は夜10時10分までに実験を切り上げないと最終電車に乗り遅れるため、こんな地獄みたいな所に二晩続けて泊まりたくないと思って、何が何でも早く実験を終えてしまいたいと努力した結果、私の実験の腕は上達の一途をたどった(と、本人は思っている)。

 そんな私に次の転機が訪れたのは修士課程2年の時である。世界初のテトロドトキシン全合成を達成した岸先生がハーバード大学化学科の客員教授として招かれ、私も1年間留学する事になった。英語は苦手ではなかったが英会話をやったことがなかったのでケンブリッジ(マサチューセッツ州)に到着した途端に右往左往状態が続き、初めての一人暮らしということもあって何とか慣れるのに半年はかかった。この初めての海外生活で日本が如何に小さな国であり、世界は広いという事を思い知らされたが、研究生みたいな気楽な身分だったので学業や研究では大いに楽しめた。しかし、1974年夏に37歳の岸先生がハーバード大学の正教授として再び渡米された時、私も同大学の院生として転入し、各地から集まった優秀な院生達と張り合っていくことになった。MITのDanheiser教授やMichigan大学のRoush教授は中でも図抜けて優秀な院生で、こんなに出来る学生は見た事が無いと正直言って驚嘆した。それと同時に、自惚れだけで何とかそこまで辿り着いた私に、この時初めて「彼等に負けたくない」という熱き血がたぎった。彼等のおかげで私は謙虚になり、研究にも勉強にも更に一層の努力をするようになった。

 その後、無事にPh.D.を取得し、1978年にテキサス州ヒューストン市のライス大学化学科に赴任し、1995年夏までの17年間思う存分研究を続ける事が出来た。私にとって研究とは高度に知的なゲームであり、趣味みたいなものでもある。この境地に達するまでに、大切な人々との出会いがあり、面白いと思った事に没頭する事で道が開けてきたように思う。人生先の事は分からないが、今までの出会いの中に自分の専門分野を選ぶヒントが有るのでは?


agc@park.itc.u-tokyo.ac.jp