私が大学時代に学んだこと

金森 修(教育学研究科教授)

 私はプライヴェートなことを語るのが本当に嫌いだ。今回、それなりに私的なことに関係するようなことを書くことを依頼され、いまこうしてしぶしぶ筆を起こしている私だが、読者は、後の記述を読めば、それがいわゆるプライヴェートなことのなかでも、ずいぶん、私の職歴に近いことしか述べられていないことに気づくはずだ。私にとって、普通の意味での私的生活などは、人前で述べるほどの内容がないものなのだ。

 いま、この課題を与えられて、自分が通ってきた知的履歴をある時点で振り返って、そのうねりや迂回路について、または学んでいた最中のためらいや驚きなどについて、何かを思い出そうとしてみる。すると直ちに明らかになることは、自分が自分自身の教育過程で辿ってきた経路を現時点で正確に映し出すなどということはほぼ不可能なのだ、ということである。自分の学びの道の精神分析をし、まだ学ぶ前、または学ぶ途中の自分の状態を正確に思い出すことなど、とてもできない。だからいま、何を言うにしても、それは現時点からの虚構であり、その虚構を自ら信じ込ませることによっていま現在の自分にとっての糧にしようとする、ある精神上の狡知が働くということを当然の前提として、以下の話しを綴ってみよう。

 私は、東大文科L類に1973年に入学した。子どもの頃、別にあまり本を読むこともなく、ただ何気なく過ごしていたが、高校の頃、文学史の参考書か何かを読んでいる最中、三島由紀夫の『金閣寺』の一節に目を通す機会を得た。その一節は確か禅宗の達人と主人公の若い僧との間の含蓄深いやり取りだったような記憶があるが、その言葉の流れと、それが名指しているように思われた不可思議な観念の世界に、若い私は何かざわめきのようなものを感じた。不幸にして私は、当時、ごく平凡な受験秀才であり、教科書や参考書の内容をただこなすような日課のなかで、自分が何を好きで何が嫌いなのか、何を美しいと感じ何を醜いと感じるのか、大人になったら何をしたいのか、といった類の問いかけはできる限り自分に課さないようにして生きていた。だから、三島の一節を読んだときに感じたざわめきのようなものを、どう表現したらいいのか、自分ではまったくわからなかった。私は自分が感じているものをどのように自分の心のなかに位置づけたらいいのか、それがわからなかったのだ。

 だが、それを一つの重要なきっかけとして、母親に、何か文学作品をまとめて読んでみたいからお金をくれとねだり、千円をもらって本屋に駆け込んだ。当時、千円で七冊の文庫本が買えたということを、もう三〇年前にもなるが、はっきりと記憶している。そのなかには、確か安部公房の『他人の顔』や、夏目漱石の『こころ』や『彼岸過迄』などが含まれていたような気がする。なかば偶然に、ただ子ども心で何かを感じて買い求めただけのものだが、いま思うなら、最初の自発的文学体験としては、ずいぶん幸運だったと私は思う。例えば『他人の顔』は、私に大きな驚きを与えたし、その作品がもつ構造の見事さは、文章で時間のなかに一種の建築を作ることができるのだ、というすごい事実を私に示唆してくれるに十分だった。その後、安部公房はずいぶん読んだが、初期のいくつかの短編は別にして、『他人の顔』は、私にとって彼のなかでも最も好きな作品であり続けている。そしてそのすぐあとに私は、ヘンリー・ミラーの『南回帰線』に魅惑された。その記述的なようでいて、ところどころで詩的表現が奔出する、見事な散文に私は文字通り夢中になった。また、確かもうかなり寒い初冬のある日、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を、一気に読もうと決心して、その後数日かけて読破したことは、高校時代の最も緊張に満ちた記憶の一つだ。あの、少年らしい背伸びをした気迫が、いまとなっては懐かしい。

 そして、それらの本を読んで、前に感じたざわめきが感動や憧憬という感情だったということを自覚し始めた私は、大学で文学を学びたいと思い、文科L類に入った。

 だが、大学自体は面白くなかった。語学の勉強がもつ単調さは、私の落ち着きのない、また散漫な好奇心に流れる心をむりやり押しつける類のものだったし、残念ながら田舎出の受験秀才には、好悪や美醜に関する判断を凛と張りつめながら生きていくということが身に付いていなかった。焦燥感や不満、将来への不安や、退屈で無際限に続く時間にうんざりし、私は自閉的で、そうとうに暗い若者時代を過ごしたような気がする。

 そんななかで、あれほど望んでいた文学研究への熱もいつしか冷め、私はむしろ単調だが機能的な語学勉強を一つの準備作業として自分に課すようになり、一時期は寝ても覚めてもフランス語というような毎日が続いた。だがそれが何に向けての「準備作業」なのか、まだ自分でもよくわかっていなかった。

 そしてなかばふらふらと大学院に入った私には、またいくつかの重要な書物との出会いが待っていた。平凡な私の人生のなかで、若干でも人とは異なる内容をもつ部分があるとすれば、それはやはり私が無数の時間を過ごしてきた図書館や書斎での、私の心のなかの静かな事件以外にはないのだ。新鮮な読書体験としていまでも覚えているのはプラトンの『パルメニデス』、バシュラールの『火の精神分析』、アドルノの『ミニマ・モラリア』、パノフスキーの『イコノロジー研究』、ポパーの『推測と反駁』などの、思想潮流としては雑多で、互いに背反しさえする一群の書物だった。だが、それらの本はその時点その時点で私の世界を若干変えて、しかもその書物自体をではなく、むしろその背景にある未踏の思考空間が存在するということを私に暗示してくれた。また、高橋和巳の『邪宗門』、ゴールディングの『蠅の王』、アルトーの『ヘリオガバルス』のようないくつかの小説の読書体験も忘れがたい。文学研究者としての道は捨てたが、私は実はいまでもこっそり小説を読み続けている。それが、自分で十分に自覚できはしないまでも、私の精神に決定的な滋養を与え続けているということは、もはや疑いようがない。私は死ぬまで文学作品の回りをうろつきまわることをやめないだろう。

 そのような読書体験を通して、私はほとんど二〇代全体をかけて、強いていうなら次のようなことを学んだような気がする。受験秀才だった私が受験勉強で覚えた決まり文句や結論、定説などは、実は、世界をそのまま写し出した写像のようなものとして存在しているのではなく、それを正しいと見なす数多くの人々の判断によって支えられているものだ、ということを、私は自覚するようになったのである。たとえば、645年は大化の改新、といった風な覚え方で史実をなぞり、日本史の最低限の流れを把握したような気になっていた私は、なぜ、たとえば7世紀半ばの日本史でその事件が重要なものと見なされるのか、その背景の政治的、社会的な意味などが、実はその一見単純で単なる記憶の対象にしか見えないものの背後にぎっしりと詰め込まれている、ということを悟るようになった。史実は石のように転がっており、それをただ拾い集めていけばいい、というのではなく、それはむしろ掬い取ろうとしてもなかなか掬えない水面の藻のようなものなのだ、ということに、私は徐々に気づいていくようになった。

 そして歴史のことがそういえるなら、ましてや文学や哲学、思想などにおいても、いっそう、それまでかなり大量に覚えていたつもりの多くの事実が、なんら固定的で写像的なものではなく、多くの人の無数の判断が闘わされ、調停されたうえで、かろうじて固定された風な装いをもつものにすぎないのだ、ということがわかった。事実の世界と思想の世界が、固体様のものから液体様のものに姿を変えた。流動する事象のただ中で、とにかくある種の礎欲しさに人は、確実な外観を一見そなえたように見えるいくつかの事実を練り上げる。だがそれは、あくまでも練り上げられたものなのであり、ぽっと拾われたものではありえないのだ。

 それは実在の世界と、判断の宇宙の流動化の体験だった。それこそが20代最大の私の知的発見であり、その衝撃の継続のなかでいまも私は生きている。これほど抽象的な話しが、皆さんの何かの役に立つのかどうか、私にはわからない。だが、これが私がいいうる最大限プライヴェートな話しなのである。


agc@park.itc.u-tokyo.ac.jp