人生は偶然と出会い:私の選んだ道

農学生命科学研究科・教授・北原 武

 私が生まれ育ったのは、南アルプスと中央アルプスとに挟まれた、天竜川沿いにある長野県の伊那谷の小さな村である。新聞を読むのが好きな母や本好きの姉の影響で、小学校3年頃から活字を読む癖が付いた。以後中学にかけて、井上靖の「氷壁」などの新聞小説、岩波の「少年少女世界文学全集」、「落語全集」等を手当たり次第に読みふける、晩生でひ弱な文学少年だった。中学2年の冬に風邪で寝込んだ際、姉が買ってくれた司馬遷の「史記」物語のあまりの面白さに繰り返し読み、「倉廩実ちて則ち礼節を知り,衣食足りて則ち栄辱を知る」等の名文句が頭に染み込んだ。以来漢文や漢詩好きとなり、「十八史略」など中国史に傾倒した。今、私が受験する高校生だったら、間違いなく中国史を専攻しただろう。

 しかし、貧しい時代に田舎の農家の子が、たまたま大学へ進学させて貰えるという幸運に恵まれた時、趣味に過ぎない歴史学を目指すわけにもいかず、高度成長の初期ということもあって、直接役に立つと考えた化学を選んだ。経済上の問題から浪人は出来ないため、より確実性の高い理IIを受けた。当時は理系でも二次試験に社会が2科目あり、得意とする歴史で稼いで何とか合格し、本当に嬉しかったことを思い出す。

 さて、入学したものの、田舎者には全てがカルチャーショックで劣等感に固まっていたら、身長176 cm、体重59 kgの体型のせいか、ボート部から勧誘された。「君ボートを漕げよ。東大の運動部で日本一になれるのはボートだけだ!(事実、私の在籍した4年間で2度全日本選手権で優勝した)君たちは4年の時に東京オリンピックがある。オリンピック選手になれるぞ!」という甘言につられ、懸垂も出来ないのに入部した。1年生の6月からは合宿続きで、完全にボート漬けの生活だった。残念ながら体力が伴わず途中で故障して、私の選手生活は2年間で終わり、マネージャーとなった。しかし、身長180 cm、体重70 kg強の筋肉質となり、懸垂20回以上も出来る体力が付いた上に、尊敬すべき先輩、良き同僚、後輩などに出会えたことが、後年私にとって何物にも代え難い宝となった。

 ただしその代償は大きく、成績は当然低迷した。応用化学への進学は断念せざるを得ず、薬学や農芸化学にも届くか危なかったが、目をつぶって志望した農芸化学科に何故か入れたのである。本郷では、我が生涯の恩師となる現学士院会員、松井正直先生の明快な講義に魅せられ、4年での卒業論文研究で有機合成をするべく、松井研究室を志望した。ところが松井研究室は人気が高く、定員6人に11人志望するという激戦であった。成績順ならば絶望だったが、有り難いことに抽選で、運良く入れた。しかし、ショックだったのは、同級生の大類洋君(現在東北大学教授)が、既に有機化学の英文原書2冊を読破したと知った時である。このままじゃ恥ずかしい、大学院でもう2年勉強をして、他の人達が4年で学んだことを自分は6年間で手に入れ、社会に出ようと考えた。当時は大学院進学者数が定員程度で、幸運にも筆記試験免除の内部推薦制度があり、これ又抽選で第一希望の松井研究室を引き当てた。何という強運!

 さて修士課程では一生懸命勉強もしたが、研究上で私の進路を決定づける事件が起きた。松井先生は、除虫菊の殺虫成分ピレスリンの研究における権威で、とくに酸部分である「菊酸」の研究が中心テーマであった。この人畜に殆ど無害の素晴らしい殺虫剤は、不安定ですぐに分解する欠点がある。そこで、もっと安定で良く効くものを探す研究が40年以上も続けられて来たが、酸部分については未発見であった。松井先生はこれを解決するために、私に「酸部分の化学構造と殺虫活性について系統的に追求せよ」と言われた。一生懸命実験に励んだ結果、合成した物の一つに天然物に優るとも劣らぬ強い殺虫性があったのである。これは、酸部として強力な殺虫性を持つ初めての誘導体という画期的発見となった。私は「ものつくり」の面白さに触れて感動し、全く予想外の結果に興奮した。この酸を使って住友化学で開発された「ダニトール」は、農業用殺虫剤として実用化され、世界中で使用されている。まさに「瓢箪から駒」で、この事が私を「ものつくり」の世界に一生関わらせる契機となった。

 その後、博士課程に進んで農学博士の学位を得、私は1969年に理化学研究所の研究員となった。ここで10年間過ごしたが、研究の場が変わったおかげで他大学出身者や他分野の研究者と知り合い、私の世界は飛躍的に広がった。この間、1974年31才の時、米国ピッツバーグ大学のSamuel J. Danishefsky教授(当時37才)の元へ、博士研究員として2年間留学する機会を得た。彼との出会いが、私の研究人生をさらに実り豊かなものにした。彼は学問のみが趣味という非凡で尊敬すべき学者であり、私は触発されてひたすら実験に没頭した。アメリカ到着後わずか3週間でつくった物質が、有機合成化学の分野では著名なDiels-Alder反応における50年の歴史の中で、これまでにない驚異的な高い反応性を示すことが分かり、新分野の開拓に成功したのである。このものは、当時研究室内で北原ジエン:Kitahara's Dieneと呼ばれ、現在はDanishefsky's Dieneとして市販されている。この物質および関連化合物を利用した研究報告は、その後の25年間で400報を越しており、如何に利用価値が高いか分かるであろう。私自身もこれを使って抗ガン剤の合成に成功し、本当に充実した気持で帰国した。この留学で手に入れたもう一つの宝は、多くの内外の若手研究者と知り合えたことである。無名だったこれらの仲間達が、今やあちこちの大学で教授として、又企業のリーダーとして活躍している。まさに「貧時の交わりは忘るる可からず」である。この2年間で、私は「ものつくり」を目指す研究者としてやるんだという自信を手に入れたと思う。

 帰国後しばらくして、1979年に東大に戻り、松井先生の後継者である森謙治教授の元で助教授となった。学部4年の時以来機会ある毎に、森先生の学問に対する強烈な集中力、研究者としての鋭敏な勘を学ぶべく謦咳に接してはいたが、共著論文は多くなかった。にも拘わらず、私を選んで下さった森先生に深く感謝している。その後研究室を引き継いで、現在に至った。

 振り返ってみると、多くの偶然と出会いが、私の進んだ道を決めたのだと改めて思う。上京後の大学4年間という約束で面倒を見てくれた兄夫婦が、私の我儘を聞いて結局9年間居候させてくれなければ、現在の私はあり得ない。今は、様々な出会いに感謝するのみである。私なりに体験を通じて痛切に感ずる、「どの人にも必ず偶然の出会いがあるが、それを(奇貨)として認知し(必然)に出来るよう自分の感性を磨き上げることが大切なのだ」と。そのためにも、若い皆さんは出来るだけ視野を広げ、色々なことに興味を持ち、自分に合った道を様々なベクトルで探し求めて欲しい。

 今、情報が瞬時に世界中に伝わるので、夢が持ちにくい時代だと言われているが、全てそうだろうか。私が小学校5年の時、兄が「世界旅行」という本を買ってくれた。きれいなカラーの挿し絵がいっぱいあり、面白くて摺り切れるほど読んだ。サンフランシスコ湾に船が入る場面、赤い金門橋(Golden Gate Bridge)の挿し絵が、私の脳に焼き付いた。海外旅行など夢のまた夢で自分が行けるなどと思いもよらず、ただ異国の風景画を眺めていた。思いがけず20年後、先に述べた米国留学の機会が来た。帰国の途中サンフランシスコで遊覧船に乗ったら、あの挿し絵の風景が、そのまま私の目に写った実像に重なった。夢が現実になったその時の感動は、一生忘れ得ない。  時代が変わり科学技術がいくら進歩しても、未だに皆さん自身の未来が全て予測出来る訳ではない。だから、若い内は方向転換があっても良いし、少々回り道しても一生懸命になれるものが見つかり集中できれば、いつかはその分取り返せると思う。どうか、自分なりの夢と期待と少々の不安を持ってそれぞれの道に進み、しかし「勇気」を持って生きて下さい。そうすれば、夢が実現する可能性は大いにあるでしょう。

 最後に、具体的な分野選択について一言。我々のような実験中心の研究分野では、手を動かしつつ考えて仕事を進めることが要求されます。つまり「丁稚奉公」とまで言わなくとも、技術の習得の訓練期間は必須で、少々辛い場合もあるでしょう。そんな時でも、実験を通じて興味ある結果を見出し、「実際にやったのは自分だ」と言える体験を是非持てるように頑張って下さい。そして、そこから独立した研究者、技術者としての道を切り開いて下さい。そのような「忍耐」が出来る人は前途有望です。皆さんの健闘を祈ります。


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