学科紹介

 文学部言語文化学科
       学科長 平石貴樹

Q「言語文化」って何ですか。
 よくわからない。確かにこれは耳慣れない言葉だが、それでいいのではないだろうか。要するにこの学科は、言語と文学を研究する専攻の集まりで、各専攻の基本的な内容については、わかりやすいことおびただしい。しかも各専攻は、専門とする外国語によってかなりあっさり区切られている。この区切りを越えて、「言語文化学科」としてのアイデンティティを勇躍心配することなど、ふだん誰も考えていないから、学科の名前は屋根の上の鬼瓦みたいなものである。

Qじゃああまり意味はないんですか。
 あるとも。専門の区切りにとらわれないで、いわば世界文学なり、普遍文法なりを、雄大に構想する問題意識はかねてほどほどに尊重されている。「西洋近代語近代文学」専攻が設けられて、諸専攻クラスと連携を保ちながら一言語にとらわれない手広い活動を耕している。「普遍文法」のほうは言うまでもなく、近年の「生成文法理論」の奥ふかく秘宝のように眠る理念で、嫌でなければ嫌と言うほど勉強できる仕組みになっている。おまけに「キリスト教史」から「精神分析」に至る、複数の専攻に関わる「多分野講義」も文学部にはあまた数多い。あたかもネットサーフィンできる賑やかさ、これはなんとも自画自賛ものだ。

Qそうでしょうか。
 いやいや、言語研究の醍醐味は各言語の歴史的な変遷にあり、それらの祖先たるギリシャ語ラテン語、あるいはサンスクリット語にこそある、という向きもある。当学科の基本構成はそうした向きに向いている。言語探偵としてフィールドワークを重んずる「言語学」専攻をはじめ、東西の要諦「インド語インド文学」「西洋古典学」を戴くばかりか、「日本語日本文学」「中国語中国文学」「英語英米文学」「ドイツ語ドイツ文学」「フランス語フランス文学」ロシア語とポーランド語を中心とする「スラブ語スラブ文学」イタリア語とスペイン語を中心とする「南欧語南欧文学」と一挙に列挙してしまったが、結局は各国語の重要な時代ごとの歴史言語学的専門家をずらりと誇っている現状である。

Q文学研究はどうなってますか。
 どうにもなっていない。専攻によっては数千年の基盤の上に立つ。歴史言語学と袖擦りあう古典的文献の解読や文献批判から、20世紀の世も末の詩や小説や劇その他まで、渉猟または少量ずつ読む。批判と言っても悪口を言うことではないぞ。それでは授業は古色蒼然たる講読注釈の連続なのかと言えば、だいたいそうだ。去年出たばかりの本でも教室で読むと黴くさく見えるのは何故なのだろう。

Qそうですね。
 それは作品が抱え込んでいる「文化」を、精読が意識化してしまうからさ。「言語文化」の意義がだんだんわかってきただろう。

Qさっきはわからなくていいって、おっしゃったじゃないですか。
 いずれにしても、辞書を引いてしかるべく精密な読みを確保することが、当学科各専攻の共通の基本姿勢だ。はじめから辞書が好きな人は、ここで酒池肉林の思いにひたるだろう。だがそういう人は、幸か不幸かあまりいない。

Qでしょうね。
 ところが実態はまたずいぶんと違う。一つには、駒場の生協などでよく売っている批評理論というのも、質量ともに端倪できない。文学理論的、文化史的、学際的アプローチは、教室でも研究世界でも、水かさのように増してきている。そうなればいわば床上浸水的に、読書や評価・研究の歴史そのものを泳いだりもする。また本籍「言語文化」現住所「哲学」「西洋史」はたまた「社会学」というような、出稼ぎ的野心も今では歓迎されている。学科内部の繋がりを横糸とすれば、学科を超えた繋がりは横綱と言うべきだろう。したがって「演習クラス」などではいろいろな角度から議論が起こる。

Qそうなんですか。
 なぜならここ十年ほどのあいだに、コンピュータを活用した文学研究が、文献探索や用例検索、辞書利用などに関してぐんぐんはびこっている。文学とコンピュータは猫に小判かと思いきや、やってみるとこれがけっこう火に油を注ぐ。辞書学の火にコンピュータの油だ。焼かれてみたくなるだろう。実際そのままコンピュータ会社に昇天した学生もいる。もちろん外国へ留学または調査研究する学生も増えてきているし、専攻ごとに専任外国人教師を迎えているから後顧の憂いもない。言語文化学科の度し難いまでの多様性と自由を、赤裸々に感じ取ってもらえただろうか。

Qくっくっ。
 単位の上からもそれは言える。言語文化学科の学生は各専攻に所属して、基礎的な三科目ぐらいの必修単位を取って演習とかもいくつか取る。あとは他専攻、他学科の授業も自由にサーフィン的に取る。私などかつて、英文の学生でありながら中村元大先生の「仏教概論」を二年間聴講させていただいた。大は先生のほうに付く。お名前は元である。それにしても仏教と言えば祖父の葬式しか知らぬ私などを数えてもわずか四五人が、大先生を毎週囲んで、音に聞く名講義を実際に音に聞くのだから、もはやこれはどうしようもなく文学だと感動したものだった。

Qあの、単位の話をもう少し・・・。
 単位は話すものではなく、取るものだ。取ればあとは卒業論文を書くだけということになる。自分の好きなテーマを議論すればよい。基本文献をよく読んだら、とにかく考えることだ。日々の暮らしからそう簡単に問題意識が発生しないところが、当学科の栄光と悲惨だ。語学的方面の場合、議論はおのずと例文を出すなどして議論らしく進むが、文学の場合はおおむね作家・作品研究になる。研究論文が中学や高校で書かされた感想文とどこが違うのか、これが分からない人はべつに困らないが、こちらが困ってつい卒業させてしまう、という実情もあることはあるようだ。

Qそれならシロウトでもだいじょうぶですか。
 その質問には深い甘えが含まれていて不快だ。ただし、「学科卒」という愉快な制度が当学科にはある。進学時にいちおう専攻に配属されても、最終的に卒論は書かないで、代わりに自由な単位を少し多く取って無事卒業をゲットする制度だ。これを果敢に利用する学生も増えている。

Qそうすると、駒場の教養学部なんかとの違いはどうなっているのですか。
 分からなくてよい。広い意味で文学作品を扱う場合には、どちらへ進学しても勉強はできる。実際駒場と本郷の先生方は、学部でも大学院でも、しばしば地下鉄で言うところの相互乗り入れを実施している。無理に言えばこちらには、語学好き・文学好きの学生がおのずから割合多いだろう。教養学部との一番大きな違いは、おそらく文科三類から進学する場合、教養学部のほうが進学振り分けの点数が高いということだ。

Qそれは教養学科のほうが就職がいいからなんですか。
 松のことは松に習え。卒業生の進路とか、学科で学んだことが将来どんなふうに役立つのか、といった心配は、言語文化学科にはおよそなじまない、と思うのは間違いで、年々多彩な職業に卒業生は就いている。その点では文科系他学部と、おそらく大差ないだろう。小差はあるだろう。だが銀行も商社もコンピュータ会社も、卒業生の中にはいつもいる。マスコミや出版関係が比較的多いかもしれない。高校教員ももちろん定番だ。ただし言葉を返すようだが、一番多いのは大学院進学者だ。学科平均で四割弱、まずイチローの打率なみだと思えばいい。イチローは好きかね。

Qはあ。
 人を好きになるより言葉を好きになる、という事態は、一見すると異常に見えるが、その通りなのだ。しかし好きになるということはあるもので、人はほんとうは誰でも言葉が好きなのだ。なぜか。それが言語文化学科だということになる。

Q???
 だから当学科は、言葉をきわめておろそかにしない。その証拠に、この問答はあえて巧まずして七転八倒の文体と比喩揶揄を弄してみたのだ。聞いていて笑ったきみ、侮蔑にも似た苛立ちを感じたきみ、きみこそ人知れず言語文化学科の申し子なのである。申し込みたまえ。

Q帰ろ。