農学部は大学院重点化でどう変わるか

     農学部 農業生物学科 小林 正彦

1.農学部改組の経緯  農学部では1985年以来8年間にわたり、農学の研究教育の在り方を検討してきた。それは、2つの必要性に基づいていた。一つは、研究教育の高度化に即した大学院重点化の必要性であり、もう一つは、農学教育の見直しの検討結果を具体化する必要性であった。このため農学部の改革は、機構組織の改編を主とした従来の大学院重点化(本誌第5号)とは多少趣を異にしている。そこで、少々堅苦しい話になるが、この間私達が論議を重ねてきた農業や農学に対する考え方を示すことにより、農学部の内容がどのように変わるかを理解して戴くことにした。

2.農業と農学の意義付け 農業は生物の有する生産機能を利用し、食糧や木材などの生活必需物資を生産する人間の基本的な営みである。この営みにより人間は自然との接点を持ち、変動する自然条件のなかで土地の管理運営を図りつつ国土と環境を保全し、その生存基盤を確保してきた。

 従って、農学は生物を利用した生産にかかわる科学であると同時に、人間と自然環境の調和のための科学でもある。

3.農学の課題 この半世紀に急速に進んだ国際化のなかで、農業は世界的な規模での問題を生じてきた。世界人口の急激な増加は、食糧分配の不均衡による飢餓と飽食の混在をもたらし、近い将来には食糧生産を上回る人口増加が、世界規模での飢餓の拡大をもたらすことが予測されている。また、生産量の増強に付随した過度の耕地開発は生態系にひずみを生じ、これに並行した工業生産の急激な発展は、人間の生活と生存の環境を地球的規模で破壊しつつある。このため、農業には食糧生産はもとより国土資源の維持管理、環境の保全など、人間の生活と生存にかかわる多面的機能が求められ、農学にも今まで以上に多面的な研究教育と世界的な視野からの問題解決が要請されるようになった。

4.生命の時間軸をもった科学 このように、農学の中心課題は「効率的生物生産」から「持続的生物生産」及び「生物による環境の保全」へと変遷している。これは、農学に時間の座標軸(時間軸)が加わってきていることを示している。すなわち、持続的生物生産は、生物生産の効率を環境と調和させながら持続させるということであり、効率的生物生産に生態系の時間軸を加えたものに他ならない。また、生物による環境の浄化・修復機能に生態系の時間軸を加えたものが環境の保全である。

 生物の個々の生命は一定の生存期間の後に死をもって消滅するが、生物種としては連綿と連なる生命の鎖を有している。農業は、この生命の連鎖を増幅して利用するものであり、当然のことながら、農学は、その根底に生命の時間軸を有していなければならない。

5.農学的生命科学の確立 農業及び農学研究の直面する諸課題を解決するためには、生物の持つ多様な機能を開発し、革新的な生物生産技術を確立することが必要である。先進農業国における生物生産の効率は、この1世紀の間に品種改良と栽培技術の改良によっておよそ2倍になったが、効率は一様の速度で向上したのではない。本学で、90年も前に実証された雑種強勢理論に基づくハイブリッド(一代雑種)の利用のように、わずか10年間で生産を倍増した例もあり、革新的な開発研究の効果は絶大なものがある。それには、遺伝子操作、細胞工学等のいわゆるバイオテクノロジーと総称される生命科学の技術を駆使する必要がある。持続的生物生産のためには、農薬の使用を軽減し得る耐病性・耐虫性の作物の開発が必要であり、環境保全には高い環境浄化能力をもつ高機能生物の育成が必要となる。このように生命科学の技術は、生物生産と生物環境の保全に革新的な技術を提供することが期待され、これなくしては人類全体が直面しつつある生存の危機を打開することが不可能である。

 一方、先に示した「生物生産と環境の調和」「環境の保全」という課題には、まさに生命科学の精神ともいえるライフサイエンスの考え方を取り入れなければならない。人間が生態系を守りながら自然環境と調和して生きることは、多様な生命の存在の調和を図ることであり、このためには、ライフサイエンスの深化を必要としているのである。

 このように、農業及び農学に課せられた人類の生存にかかわる重大な課題は、森林、耕地、海洋、都市緑地の全域にわたる生態系を場として、農学と融合した農学的生命科学の精神と技術をもってして初めて解決し得るものである。従って、その理念においても研究においても農学と生命科学の一体化を図る必要がある。

6.大学院農学生命科学研究科の誕生 このような考えから、新しい農学部は、生物科学を基礎とし、生物生産科学、応用生命科学および環境科学を柱とする雄渾な構想をもつ新しい農学を構築し、大学院における研究教育の高度化、学部教育の弾力化、多様な教育機会の社会への提供および研究教育の国際貢献を目的とする研究と教育が一体化できる組織を確立することを目指したのである。

 かくして、生命の時間軸をもった科学の府として農学生命科学研究科が誕生したのである。百年の伝統を基盤に農学が生命の時間軸をもって蘇り、新たな萌芽の時を迎えたのである。次に、農学生命科学研究科を構成する10専攻を、そのキャッチフレーズとともに紹介しよう。

糧と緑を創る 生産・環境生物学
人類と生物の豊かな共存を探る 応用生命化学
人間と森林の明日を科学する 森林科学
海の生命を探る 水圏生物科学
グリーンエコノミックス 農業・資源経済学
生物と環境に調和する
先端テクノロジー
生物・環境工学
リニューアブルな資源の科学 生物材料科学
生命現象の基礎と応用 応用生命工学
アメーバから宇宙生物まで、
人類の福祉のために
応用動物科学
高等動物の比較生物学 獣医学

7.新しい農学部の教育 学科を構成していた講座が大学院に移行することにより、学部の教育は学科目を構成する教官団で行われることになった。学科目は学部に直属するものであるため、新しい農学部の教育制度は必然的に、教養学部前期課程や法学部における課程制に類似する教育制度と同様のものとなった。その制度は、応用生命科学、生物環境科学、生物生産科学、地域経済・資源科学、獣医学の5類に所属する学生が、18の大学科目に所属する教官の行う講義や実験実習を、それぞれの類に合ったカリキュラムとして選択する仕組みになっている。教官組織でもあり学生組織でもある学科をなくし、両者の組織を分離することにより、学生の側から教官を選べることが可能になった制度ともいえる。

 4年になると専攻分野を選んで研究室に入り卒論の実験研究に充実した学究生活を送る。それまで積み上げた幅広い知識を活用して専門の研究に専念することができる。これにより前期課程でリベラルアーツの教育を受けてきた学生が、いきなり狭い専門分野に閉じこめられる事がなくなり、教養のピラミッドの一段高い基礎を築くことができる。また、附属施設を活用した多面的教育も可能となる。

8.飛びうる、選ぶべき未来を探る農学 かつて、アメリカの州立大学協会が「人的資源の不足:アメリカ農業の危機」なる小冊子を作成して、農学教育の重要性を強調したことがある。これは、1978年以降の5年間に農学関連学部の入学生が98,030名から86,710名(農業人口580万人)に減少したためであるが、1980年当時の我国の入学生は14,514名(同506万人)であった。国情の違いはあろうが、歴史的に農業をその存立基盤の一つとせずに存続しえた国家はなく、これからもありえない。

 言うまでもなく、農学は社会的使命に基づく学問(mission oriented research)である。21世紀に向けて農学の研究・教育を、農学的生命科学を基礎に革新しようとする私達の試みもまた、後継の鎖を築こうとする使命感に基づくものである。研究やその成果が個人に帰属する傾向が強まる中で、使命感をもって学究する有志の学徒を、社会も私達も待望している。

 学生も教官も技官も事務官も、学部を構成する全ての人が、選び得る・選ぶべき未来を探っているのが農学生命科学研究科・農学部なのである。そこには、学科の壁も講座の壁も最早なく、広大な草原に準えられる未来を探る学問の場があるのみである。


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