第83回 ランナーズハイ

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 走ると気分がいいのはよくご存知だろう。これは、脳からβエンドルフィンが出ているせいだ、とよく言われていて、それを信じている人も多いのではないかと思う。もう20年以上も走り続けている私も、多分そうだろう、と思っていた。しかし、「βエンドルフィンは脳血液関門を通らないですよ」と聞くと、皆さんも「えっ」と思われるのではないか。私は、こういうことを確かめようとしてネズミを無理矢理走らせるような研究者は大好きである。高校生にいつも言っているのだが、科学者とそうでない人の違いは、こういうところに現れるのではないかと思う。

 では実験を紹介しよう(Fuss et al. Proc.Natl.Acad.Sci. 112, 13105, 2015)。マウスを毎日5.4km走らせて、そのあと色々なテストを行うのである。例えば、明暗のある部屋のどちらを好むか(普通は暗い部屋にいる時間が長いが、不安がないと明るい部屋に出てくる)、摂氏53度のホットプレートで耐えられるか(アチチと足を上げる時間を測定、不安が募るとすぐに反応する)などである。ランナーズハイに対応するマウスの行動を見るわけだが、走った後、元気になるか、いい気分になるかを調べた。

 その結果、βエンドルフィンではなく、カンナビノイド系の関与が強く示唆されたのである。まず、走ったマウスとそうでないマウスの差を見ると、前者は明るい部屋にいる時間が長く、ホットプレートにもよく耐えたのだった。また走った後は、そうでないマウスに比べて静かにしているそうだが、これがランナーズハイに特徴的なことだ、と言っている。強い運動後は静かにしたくなるものだと言うわけだが、そんなの当たり前ではないか。ランナーズハイに一番特徴的な多幸感が測定できない(これをマウスで調べるのが難しいということだ!)というのでは、実験の信憑性が問われても仕方がない。

 しかし結果は興味深い。走ることによって、血漿中のアナンダミド(AEA)や2−アラキドノイルグリセロール(2-AG)の値は上昇していたのである。これらの分子をエンドカンナビノイドと言い、もともとはマリファナの有効成分として抽出された凾X−テトラヒドロカンナビノール(THC)に多幸感、鎮痛作用などが認められたことから話が始まっている。THCの受容体CB1を人間が持っていることが発見され、何でマリファナを吸わない人までもが受容体を持っているんだ? と話題になり、AEA2-AGが脳から見つかったのだ。もちろん、これを使って鎮痛剤、多幸誘導剤などの商品開発を狙ったものだったが、今もっていいものは出回っていない。

 実験では、CB1のインバースアゴニストを使ったり、エンドルフィンシグナルの阻害剤を使ったりしてどちらの系が働いているかを決めたもので、結局、エンドルフィンではなくカンナビノイドが働いているという結論が得られたのである。 

 話を聞いてお分かりになると思うが、マウスを使って人間の行動や気分の研究を行うこと自体、無理がある。だって、相手の気持ちがわからない自閉症、幻覚が見える統合失調症をはじめ、このランナーズハイやあたたかい気持ちなどを動物実験で再現できるかどうか、なかなか難しい問題なのである。そう思いませんか。研究者は、多分こうだろう、ということで議論を進めていくのだが、それが続くと自然にその手法が小さいコミュニティーでのゴールドスタンダードになってしまうのだ。しかし皆さんも、オーソリティーもこの程度だということも知っていただきたい。なぜバカみたいに走るのか、この問いへの答えはまだ得られていない。まだまだやることは多そうだ。 (2015.11.4)