Becoming a researcher
かつて本郷の小形先生が 研究者への道だったか研究者(大学教員?)の毎日という記事を駒場学部報に書かれていました. 小形先生らしくて面白いのですが, コーヒー飲んで学生をからかう以外何もしていないんじゃないか? というツッコミもあり 当たらずと言えど遠からず.
多くの皆さんがお察しの通り 研究者とはかなり特殊な職業だと思います, 私はそれ以外の職業を知らないので比較検討はできませんが, 芸術家や作家, お笑い芸人(うちの学生OB連中は軒並みラジオとお笑いが好き) よりは人口が多い(全体として) けれども各分野辺りに必要な人口はそれほど多くない職業です. 毎年のように進路に悩む大学生とお話しすると 研究者になれるかな, なりたいけど無理かな, どういう人が研究者に向いているのかな, などという不安にあふれた素朴な疑問を投げかけられます.

一方で, 数年前にISSPのTさんと歓談中, 「最近の学生は(←これ危険ワード:年取った証拠)どうも進路の選択に正解があると考えている節がある」 というようなことが話に出ました. 実際 研究者(として成功する)ためにはXXをとってXX本論文をいつまでにかいて, XXを達成して... というようなリストが どうやら頭の中にあるらしく(自分はそんなこと考えてなかったな〜), さらには会社に入ったらどれくらい安定してどれくらい成功するか?というような比較軸も またあるようです. 昔からそういう天秤はあった話ですが情報社会の発展に従って 悪い意味でそのような傾向が加速された感じがします.

ここでは
(1)「研究は点数取りゲームではない」
(2)「情報はときに良い研究(研究生活)の邪魔にしかならない」
(3)「正解はあるのか, そんなものは存在しない=正解を求める人は研究者には向かないかも」
というissueをとりあげたいと思います. まず研究で たとえば (1)にあるようなimpact factor の高い雑誌に載せようという経験はしてみて悪くないと思います. いくら面白い研究をしても人に伝えられないと残念なのできちんと面白さや重要さを伝えるための視点を整理する 訓練にもなるからです. かくいう私も XXXに跳ねられた〜ありえん〜と共著者とぼやきあいながら 日々論文を書いています. ですがこの手の点数主義にとらわれすぎて自分が本当に重要とか面白いと思えることをする研究者でいられなくなったらだめになると思います.
(2) 秀才型は情報強者的にAとBをくっつけるとCになる, とか銃弾爆撃的な研究をするとか, ある種の効率と 打率を計算しながら研究しているように見えます. これも一つのスタイルです. .. が 一方で 野生の勘系(うちはそれ)で仕事をする場合には, 情報がある程度遮断され, かつ重要な情報がピンポイントではいるほうがなぜか結果的に良い結果につながることが 多いと経験的にわかっています. 結局のところ情報から予想されるような結果はそれだけの結果かなぁと思います. 最近では大人の世界も左を向いてもみだりを向いてもDX、GXですが, 情報化社会は研究を大衆化するのと同時に 安かろう悪かろうで劣化させているようです. 時代の流れで不可避なところもありますが 大人の責任ですね.
(3) 基本 研究は問題設定と疑問の持ち方がすべてとも言えます. だから正解も自分次第. 後付けでこれらが成形される場合もありますが 同じ結果をみて同じ解釈や物理が必ずしも出てこないのが人間のやる研究というものです... ということが 研究をしていればわかります. これは実証主義とか研究結果の再現性と両立します.

わたしが卒業した理物というファカルティはいわゆる点取りが得意な人がたくさんいるところで 良くも悪くも最適化が上手な人間が集まる傾向にありました. こうなると点取りをしない理由もないわけで 自分も20代のある段階まで 下記の大船志向が当たり前だと思っていた節があります. 某ISSPのHさんから「東大生はニンジンをぶら下げれば走る」 (京大生はそっぽを向く?)という皮肉が出るのももっともだと思えるだけあって 良いところもあれば悪いところもあり その悪いところがまさにこの3点に凝縮されているように思います.
ありがちな思考パターンとして 「大きな船に乗って一般セイラ―から始めて一等航海士になって最後にはその船の船長を目指す」こと =研究者として成功すること だと考えるパターンなのですが, これはまさに昭和世代の大企業サラリーマン思考の延長ともいえる考え方で (そもそも成功ってなんだ?目指すものなのか?研究人生は長いぞ. ) かなり日本で誇張されている偏差値主義の弊害かなとやや残念に思います. 実際にこの路線で立派な研究者も何人もいますが, こちらの想像を超えてくるような鬼才タイプはあまりいない気がします. 言ってみれば upper boundのある中でできるだけ 100点に近い点数を取る研究者が日本人 にはとても多いし, 確かに素晴らしい能力ではあるのですが これだと 120点とか200点は取れないんですよね... 私の研究室では 100点を取る方法論は教えますが 100点を取るような研究を目指したりはしません. 普通に優秀な人以上に本当にすごい人は研究分野を独自に開拓したり, そもそも船長などめざさず, あっさり元々いた船をのり捨てている人が多い気がします.

その他 一般には本当に新しいことをしている研究者はこのパターンに載らない人がほとんどで, ほぼ 独力で小舟で最初から難破しそうな荒波を果敢に漕いでいく人か, あるいは大きな船に乗ってみたもののこれは違うと思って小舟に乗り換えるパターン, はたまた強制的に船を下ろされてのるかそるかを小舟で生き延びるパターンなど, いろいろな人を見ていると いろいろあることがわかります.
ちなみに駒場は小舟船団で頑張るパターンです. 我が道を行く人がくるところで, 小舟で頑張りたい・頑張れる人は, 早めに煩悩を捨てて メンタルにも独立できるという点で研究者への近道かもしれません,

というわけで 身も蓋もありませんが安全な路線を選ぶ人はあまり研究者には向いていないような気がするので だいたい博士を取ったころには, 自動的にアカデミックに残りたいと決意するか しないかかが決まってしまいます. 決意したところでもちろん保証がないわけで, 保証がなくても それが不自由でも不幸でもない人は一定数いるわけです. そもそも研究者なんていてもいなくても社会のエッセンシャルワークにではないですから... ...

そんなこんなで教員目線で見たとき この人は優秀なのになぜ残らないんだろう というのは非常に安直で傲慢な判断で 学生時代にそれほど素晴らしく業績を上げたわけでもなくちょっとどんくさくてでも何か不思議な人が, 急激に面白い研究をするようになったり, また学生の頃ブイブイ言わせていた人がPDになった瞬間失速したり, ... そんなことが当たり前のようにある世の中です. 正解は自分が選んだ道だと思うのが吉で, 結局うまくいったりいかなかったりという 山谷がないと研究人生もつまらないと思います. しかしながら研究ネタが全く思いつかないとか 研究することが苦しくて仕方ない 人は絶対にならない方がいい職業です. 三度のメシより研究したい人がなって幸せな職業であって, そういう生活はほかの人から見るとただの理解不能なブラック生活かもしれません.

もちろん我々 研究と教育以外のやりたくない仕事も休日を返上しながらたくさんやっているわけで それがなければ天国なのですが... (中年の主張).